Sunday, October 22, 2006

BRANDは細部に宿る

ここ数週間は仕事も含めて大変多忙な日を過ごしていたため、ブログ更新が疎かになってしまいました。
本日からまた再開、といった感じでしょうか。

今回は、私が長年仕事として関わってきた「ブランド」について書いてみたいと思います。



先日久々にセミナーに参加した。テーマは、「ブランド戦略セミナー:2006ベストグローバルブランドランキングから見るブランド価値向上のポイント」というものであった。このランキングは、毎年ブランドコンサルティングファームとして名高いInterbrand社と米誌Business Weekが共同で発表するもので、毎年私はこのランキングを大変興味深く見守っている。

このセミナーの中で、私は世界的に躍進する企業のブランド構築への執念、その企業で働く人々のモチベーションの高さなど、グローバルブランドとして世界が認める企業の懐の広さをあらためて感じ、よりブランドという一見抽象的な事象に対してもっと深い洞察力で向き合っていかねばならないと、気持ちを強くした。

"Brand"と聞いて皆さんは何を連想するであろう。
服、ジュエリー、車、時計、それとも。。。。
"Brand"というものは、企業名であったり、商品名であったり、と様々に形態を変えて、我々消費者の前に姿を現す。その姿の表し方は、インターネットを通じて、TVなどのマスメディアを通じて、口コミであったりと、様々である。
伝え方=コミュニケーションは多岐に渡る手法が考えられる中で、この難解な"Brand"力や価値を付けるために日本企業は努力を積み重ねてきた。しかし、今回のランキングを見ても分かることだが、上位に食い込んでいる企業や商品名は、Coca-Cola、IBM、Disneyなど殆どがアメリカ系企業である。この現状を目の当たりにすると、アメリカ系企業の"Brand"価値向上に向けた長年の経験蓄積に圧倒的な強さを感じると同時に、日本企業がここ数年で声高に言い出した「ブランディング」の底の浅さが見える感じがする。

マネジメントの世界から言うと"Brand"というものは最上流の代物であり、それを作り上げていくと言うことは大変骨が折れ、地道な努力を必要とする。このように重要なことだからこそ、もっと軽妙な語り口で"Brand"を語っていかなければならず、軽妙な語り口を持っている"Brand"こそ真の"Brand"と言えないだろうか。
ユダヤ人の政治学者ハンナ・アーレントが「イエルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告」(みすず書房)という著作の中で、アドルフ・オットー・アイヒマン(この人物なしに、ナチスのホロコーストはなかったと評されている)がイスラエル政府に裁かれる過程を中心に、この歴史上稀に見る大量虐殺の真実を、大変重要な事象だからこそ、皮肉を込めた軽妙な語り口で表現することを実践している。
この実践は、"Brand"を語ることにも、この精神を私は忘れるべきではないと考える。



"Brand"というのは、商品でも、企業でも、地名でも、大学でも、宗教でも、ある言葉が存在したときにその言葉が呼び覚ますイメージがあって、それが社会に伝播している、知られているという状態を言うのである。"Brand"は様々な所(現在では、パーソナルブランディングもある)に存在する=「"Brand"は細部に宿る」からこそ、もっと分かり易い言葉で、この難物を表現していくことに私は楽しさを覚えるのだ。