Tuesday, January 29, 2008

ふと考えた、世界認識の仕方

このブログでもよく触れている、クリエイティブ領域の人々との交流が今年になっても続いている。

先日も、漫画家を目指しながら、有名な漫画家先生のチーフアシスタントをやっている人と食事をした。その人と対話していて、「この人は、おそらく私の世界認識とは全く別物の認識の仕方をしているに違いない」ということを私は会話の端々から感じ取った。
今まで出会ってきたクリエイティブを生業にしている人達もまた、街中にに溢れるグラフィックやデザインの中で、明らかに「INなもの」と「OUTなもの」とを見分けているのだろう。いや、どんな平凡な風景だろうと、そこにある色彩や明暗、形状、などを、私とは全く違う見方で捉えていて、何かをそこから感じているんだろう、と思った。例えばだが、トマトを見たときに、私としては言葉としての「トマト」以外に感じることはないのだが、クリエイティブ領域の人々は「圧倒的な赤褐色」や「生命感あふれる質感」をビビッドに感じるのではないだろうか。

例えば、今年1月2日にNHKで放送された「プロフェッショナル 仕事の流儀 イチロー・スペシャル」を見て、イチロー自身の口から発せられる言葉を聞いていると、彼にしか見えていない空間があるように感じた。



また随分前に、吉本隆明「世界認識の方法」を読んでいて感じたのも、人は他者によって作られた自分に責任を負わなければならない→他者の視点→世界視線を持って、臨むことこそがクリエイティブな領域に踏み込んでいくことなのだろうと、ぼんやりとではあるが認識したものだ。



このように考えて来ると、世界を認識する方法・仕方は、実は私自身が思っているよりもバリエーション豊かなのかもしれない。
例えば、
● クルト・ゲーデルのように数字で世界を認識する数学者や物理学者 
● ジョン・ケージのように音楽で世界を認識する作曲家や声楽家
● 北大路魯山人のように匂いや味で世界を認識する料理人やソムリエ
● イチローのように運動で世界を認識するアスリート
● ジョージ・ソロスのようにお金で世界を認識する金融家
のような感じで。

どんな領域であっても最先端トップランナーとして走っている人間は、よりそれを先鋭的に感じているのではないだろうか?
私自身は、ファッション、アート、音楽、映画、書籍などに対してアンテナをいつも高く上げて、少しでも自分と違ったフィールドの感度を活性化させようと努力はしているんですがね。しかし、世界をバリエーション豊かな認識力で捉えている人たちにとってみれば、独自の世界認識の方法こそが生きる意味であり、世界そのものである、というようなこともあるのだろう。だから、なかなか私自身その壁を乗り越えるというのは容易なことではないと考えている。でも、その障壁が高ければ高いほど、チャレンジのし甲斐はあるんだけどね。

いずれにしても、この世界には本当に多種多様なキャリアがあり、それぞれのキャリアに特有の「認識の作法」というものがある。今後もそういった人々とのコミュニケーションを重ねていくことで、世界を豊かに認識し直すことになるのではないか、と期待している。

Sunday, January 27, 2008

今年になって始めたこと

今年になってはじめたこととは、今まで自分が世界中を廻って、見たり、聴いたり、学んだりなどなどをした場所の確認作業。簡単に言うと、My Mappingだ。

Google Mapを使って思い付くままに、書き込んでいっているのだが、今までの日本国内外における活動領域は記憶が薄れている部分もあって、マッピングに結構悪戦苦闘。今後は、このマッピング作りに海外の友人も巻き込むことを考え中。只今deepにアップデート中のMy Comfortable Placeを、興味ある人は覗いてみて。


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Friday, January 11, 2008

Thinking Placeに関する考察

唐突ですが、皆さんにとって、思索の場所ってありますか?
最近哲学者であるハンナ・アーレント女史の書「思索日記」を読んでいて、ふと思ったのが私にとっての思索の場ってどこだろうかということ。
哲学者である彼女は、彼女が生きた時代に思索する場所をどこに求めていたのだろうか?大学の図書館?カフェ?



この問いを思いついたとき、とある社会学者の著書の一説が脳裏をかすめた。
the “third place”-locations other than home or work that are “neutral, safe, public gathering spots.”
家庭でも職場でもないソーシャルギャザリングの場としての第三の場所こそ、思索の場として相応しいといった感じの説明だったと思う。
行動・実行に伴う思索を行える場を探すとなると、これは大変骨が折れる気がする。理想としては、自宅の書斎が良いのだが、なかなか日本の住環境では限界があるように感じる。

私がアメリカで暮らしていたときは、思索/勉強の場としてのパワーを一番発揮できる場が多くあったように思う。その場の力とは、周りが真剣に考えたり、勉強しているので、自分もそれに負けじと思考する活力を与えてくれることを意味する。私にとってのアメリカ時代の思索の場は、大学の図書館を中心に、市の図書館、大学のカフェ、隣の大学のカフェなどをフル活用して、場の力を醸成する場所を探し続けていた。カフェは閃きや、発想などの柔軟な思考が創造される場としては最適だった。しかし修士論文など、長期間を費やして紡ぎ出される思索の結晶を創造するには、カフェなどは少しカジュアルすぎた。

私が修士論文を書き上げるのに一番よく利用したのは大学の図書館で、そこが主戦場であったように思われる。修士論文のように、1)「過去の分析」のためのデータソース解析、2)「現在の思考交通整理」をするためのメモ行為、3)「未来予測」のための内省的議論や他者からの助言、を駆使して作り上げる作業には、アメリカの大学付属の図書館に多く見られる、建造物の造りが重厚であり、ヨーロッパ調の内装と多くの本が醸し出す知的な雰囲気と人々が勉強している「場の力」のエッセンスは必須であったように思う。

日本には、まだまだアメリカのように知的格闘技を形成する第三の場、そしてそこに必要な「場の力」が大変少ないような気がする。
皆さんは、自分独自の思索の場を持っていますか?

Saturday, January 05, 2008

五日目のHappy New Year 2008

新春のお慶びを申し上げます。
今年もいつ更新するか分からない、このブログをどうかヨロシクお願いします。

さて、新年のご挨拶はこの辺にして、2008年最初のブログを始めてみたい。
皆さんは、この2007年から2008年への年末年始は何をされて過ごされていたであろうか?
私はほぼ自宅に引き籠もって、日頃余り見ないTVドラマなんかも見ていた。今も、三島由紀夫原作戯曲の「鹿鳴館」を見ながらこのブログを書いている。田村正和の演技が光っている。

この年末年始には6冊の本を読んだ。ジャンル的には、ビジネス系、デザイン系、フィクション、往復書簡と、頭の切り替えには良い感じの読書ができたんじゃないかと思っている。

年末年始の読書


この読書の中で一番印象に残ったのは、「午前4時、東京で会いますか?」。この書は、Paris在住の中国人小説家兼画家のシャンサと、東京在住で、シャネル日本法人社長のリーシャル・コラスの往復書簡である。この書簡本には、12通の書簡が収められていて、フランス語で小説を書く中国人と、東京に住むフランス人の交友関係、異なる言語との格闘、政治、文化、芸術、希望などが静かに、熱く語られている。その言葉の架け橋は、二人が生きた時代、そして現在が、パリと東京でエレガントに交錯し、私にグローバル感覚を呼び起こさせた。
その他の書も、経営コンサルタントが独自の境地を開いてオタク文化から見たビジネス分析を試みたり、建築家がビジネス領域でも役立つであろう思考法を伝授してくれたりと、その他の書も新たな視点を提示してくれた。

今年も様々な書籍との知的格闘技を楽しんでいこう。