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Sunday, January 04, 2009

戦後思想界の巨人が語る現在

世界視線を持って時代と相対してきた思想家・吉本隆明が久しぶりにTVに登場している。
今その番組を見ながら、このblogを書いている。


この正月はDVD鑑賞や読書三昧だったので、久々にTVを見ていることになる。
私は吉本氏の著書を幾つかは読んでいるものの、彼の熱心の読者ではなかった。
しかし、戦後日本の言論界をリードしてきた、小林秀雄亡き後の戦後思想界の巨人が今何を語るのかが興味深かった。

その番組「吉本隆明 語る ~沈黙から芸術まで~」は、私が当初考えていたモノとは少し色合いが違った。
画面に映し出された吉本氏の姿は、車椅子で、凄く弱っている感じを受け、郷愁を誘う。
しかし、2千人の聴衆を前に3時間熱く語りかける「芸術言語論」には力があり、文学や芸術のみならず、政治・経済、国家、宗教、家族や大衆文化まで、人間を巡る事象を論じてきた往年の吉本氏の姿がそこにはあった。

彼の思想のエッセンスにもう少し耳を傾けてみようか。

Friday, May 02, 2008

4月の断片(その3):Books

4月も多忙な中、通勤電車の中、カフェ、ホスピタルなど様々な空間で暇を見つけては読書に興じていた。
4月の1ヶ月間で読んだ量はいつもの月より若干少なめの12~3冊程度だった。
それでも、私の思考を刺激する良書に色々出会った。

その中の幾つかを紹介してみよう。

まずは、



紺野 登・著「知識デザイン企業―ART COMPANY」
この書は、Apple社のiPodをはじめとする具体的な先進的企業のサービスやプロダクト事例と、多様な領域の理論とを接続する著者の深遠な知識で、昨今のBuzz Wordとなっている「イノベーション」や「クリエイティブ」を巡る諸概念を一気にマッピングしてくれる良書。

お次は、



吉本隆明・著「日本語のゆくえ」
久しぶりに、吉本隆明の著作を読んだ。私が高校生の頃、初めて彼の著作を手にしたのだが、その当時と変わらぬ彼の言語に対する探求心が衰えていないことに少し感銘を覚えつつ読み進めた。この著作は、吉本自身の母校でもある東京工業大学での集中講義「芸術言語論」をベースとして構築されている。彼がこの著作の冒頭部分で述べているコミュニケートするために言葉を発するのではない部分の言語=ディスコミュニケーションの言語を理論化していくプロセスに大変興味を持った。日本語がどんどん記号化していく現在状況で、少し立ち止まって日本語の持つ本質的問題に向き合うのも面白いかも。

3冊目は、



菊池成孔・著『服は何故音楽を必要とするのか?―「ウォーキング・ミュージック」という存在しないジャンルに召還された音楽達について』
この書を読んだときの印象としては、文字が目に入るより、私の頭にファッションと音楽が頭の中を駆け巡ったと表現するのが良いかもしれない。この著作は、菊池自身が雑誌「Fashion News」に連載していたモノを纏めたのだが、雑誌に連載されていたときより、ファッションショーと音楽という関係性をより鮮明化した感じを受けた。
菊池成孔は、音楽家でもあり、文筆家でもあり、と多様な表情を見せる人物だが、今回の書は彼のその多彩性を先鋭化したということでは、実に面白い作品だと思う。

最後はあの名著、



トゥルーマン・カポーティ・著、村上春樹・訳「ティファニーで朝食を」
これは皆さんもよくご存じの作品だと思う。
私もこの作品は、高校生時代旧訳で一度読んでいるし、原書も読了済み。
では、何故今回もう一度この作品を手に取ったのか。それはもちろん、私がその新作が出れば必ず読んでいる村上春樹が翻訳し直したから。久しぶりに読む"Breakfast at Tiffany's"が、村上の訳で新たな地平を見せてくれたことに驚きを覚えた。やはり、翻訳という作業は、その訳者の意志や思考によって、アプローチの仕方が違うのだということを考えさせられた。旧訳も良かったが、今回の村上バージョンの新訳でますますこの作品が好きになった。

4月の断片は、明日もまだまだ続く。

Tuesday, January 29, 2008

ふと考えた、世界認識の仕方

このブログでもよく触れている、クリエイティブ領域の人々との交流が今年になっても続いている。

先日も、漫画家を目指しながら、有名な漫画家先生のチーフアシスタントをやっている人と食事をした。その人と対話していて、「この人は、おそらく私の世界認識とは全く別物の認識の仕方をしているに違いない」ということを私は会話の端々から感じ取った。
今まで出会ってきたクリエイティブを生業にしている人達もまた、街中にに溢れるグラフィックやデザインの中で、明らかに「INなもの」と「OUTなもの」とを見分けているのだろう。いや、どんな平凡な風景だろうと、そこにある色彩や明暗、形状、などを、私とは全く違う見方で捉えていて、何かをそこから感じているんだろう、と思った。例えばだが、トマトを見たときに、私としては言葉としての「トマト」以外に感じることはないのだが、クリエイティブ領域の人々は「圧倒的な赤褐色」や「生命感あふれる質感」をビビッドに感じるのではないだろうか。

例えば、今年1月2日にNHKで放送された「プロフェッショナル 仕事の流儀 イチロー・スペシャル」を見て、イチロー自身の口から発せられる言葉を聞いていると、彼にしか見えていない空間があるように感じた。



また随分前に、吉本隆明「世界認識の方法」を読んでいて感じたのも、人は他者によって作られた自分に責任を負わなければならない→他者の視点→世界視線を持って、臨むことこそがクリエイティブな領域に踏み込んでいくことなのだろうと、ぼんやりとではあるが認識したものだ。



このように考えて来ると、世界を認識する方法・仕方は、実は私自身が思っているよりもバリエーション豊かなのかもしれない。
例えば、
● クルト・ゲーデルのように数字で世界を認識する数学者や物理学者 
● ジョン・ケージのように音楽で世界を認識する作曲家や声楽家
● 北大路魯山人のように匂いや味で世界を認識する料理人やソムリエ
● イチローのように運動で世界を認識するアスリート
● ジョージ・ソロスのようにお金で世界を認識する金融家
のような感じで。

どんな領域であっても最先端トップランナーとして走っている人間は、よりそれを先鋭的に感じているのではないだろうか?
私自身は、ファッション、アート、音楽、映画、書籍などに対してアンテナをいつも高く上げて、少しでも自分と違ったフィールドの感度を活性化させようと努力はしているんですがね。しかし、世界をバリエーション豊かな認識力で捉えている人たちにとってみれば、独自の世界認識の方法こそが生きる意味であり、世界そのものである、というようなこともあるのだろう。だから、なかなか私自身その壁を乗り越えるというのは容易なことではないと考えている。でも、その障壁が高ければ高いほど、チャレンジのし甲斐はあるんだけどね。

いずれにしても、この世界には本当に多種多様なキャリアがあり、それぞれのキャリアに特有の「認識の作法」というものがある。今後もそういった人々とのコミュニケーションを重ねていくことで、世界を豊かに認識し直すことになるのではないか、と期待している。