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Friday, May 02, 2008

4月の断片(その3):Books

4月も多忙な中、通勤電車の中、カフェ、ホスピタルなど様々な空間で暇を見つけては読書に興じていた。
4月の1ヶ月間で読んだ量はいつもの月より若干少なめの12~3冊程度だった。
それでも、私の思考を刺激する良書に色々出会った。

その中の幾つかを紹介してみよう。

まずは、



紺野 登・著「知識デザイン企業―ART COMPANY」
この書は、Apple社のiPodをはじめとする具体的な先進的企業のサービスやプロダクト事例と、多様な領域の理論とを接続する著者の深遠な知識で、昨今のBuzz Wordとなっている「イノベーション」や「クリエイティブ」を巡る諸概念を一気にマッピングしてくれる良書。

お次は、



吉本隆明・著「日本語のゆくえ」
久しぶりに、吉本隆明の著作を読んだ。私が高校生の頃、初めて彼の著作を手にしたのだが、その当時と変わらぬ彼の言語に対する探求心が衰えていないことに少し感銘を覚えつつ読み進めた。この著作は、吉本自身の母校でもある東京工業大学での集中講義「芸術言語論」をベースとして構築されている。彼がこの著作の冒頭部分で述べているコミュニケートするために言葉を発するのではない部分の言語=ディスコミュニケーションの言語を理論化していくプロセスに大変興味を持った。日本語がどんどん記号化していく現在状況で、少し立ち止まって日本語の持つ本質的問題に向き合うのも面白いかも。

3冊目は、



菊池成孔・著『服は何故音楽を必要とするのか?―「ウォーキング・ミュージック」という存在しないジャンルに召還された音楽達について』
この書を読んだときの印象としては、文字が目に入るより、私の頭にファッションと音楽が頭の中を駆け巡ったと表現するのが良いかもしれない。この著作は、菊池自身が雑誌「Fashion News」に連載していたモノを纏めたのだが、雑誌に連載されていたときより、ファッションショーと音楽という関係性をより鮮明化した感じを受けた。
菊池成孔は、音楽家でもあり、文筆家でもあり、と多様な表情を見せる人物だが、今回の書は彼のその多彩性を先鋭化したということでは、実に面白い作品だと思う。

最後はあの名著、



トゥルーマン・カポーティ・著、村上春樹・訳「ティファニーで朝食を」
これは皆さんもよくご存じの作品だと思う。
私もこの作品は、高校生時代旧訳で一度読んでいるし、原書も読了済み。
では、何故今回もう一度この作品を手に取ったのか。それはもちろん、私がその新作が出れば必ず読んでいる村上春樹が翻訳し直したから。久しぶりに読む"Breakfast at Tiffany's"が、村上の訳で新たな地平を見せてくれたことに驚きを覚えた。やはり、翻訳という作業は、その訳者の意志や思考によって、アプローチの仕方が違うのだということを考えさせられた。旧訳も良かったが、今回の村上バージョンの新訳でますますこの作品が好きになった。

4月の断片は、明日もまだまだ続く。

Sunday, November 05, 2006

"Cold Blood"とカポーティ

先日久々に映画館で、心に「ズンッ」とくる映画を見た。題名は「CAPOTE」。
神戸で最も私が好きな映画館、神戸シネ・リーブルでの上映であった。



ずいぶん昔(高校生ぐらいだったか)になるが、トゥルーマン・カポーティの著作「冷血」を私は読んでいて、今回の作品はこの著作を書き上げるまでの苦悩、苦闘を実に見事に描写していた。特にカポーティ役のフィリップ・シーモア・ホフマンがカポーティ自身の喋り方までも再現し、繊細で、傷つき易い「早熟の天才」を演じきっていた。



小さな田舎町で起こった凄惨な殺人容疑者の一人とのダイアローグは、この作品の核心部分であり、容疑者とカポーティの対話一つ一つに引き込まれてしまう。ノンフィクションのメルクマール的存在「冷血」後のカポーティは、完成された作品を1つも残すことなく、最後には薬物中毒で亡くなった。映画のラストシーンではその悲しみも見事に表現され、もう言うことなし。この秀逸な作品を鑑賞される前に、私は作家が命を削って作り上げた著作「冷血」を一読しておくことをお薦めする。