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Tuesday, December 01, 2009

An Encounter with a Beautiful Thing:Rosanjin Kitaoji

I went to visit the Rosanjin Kitaoji exhibition(held in Kahitsukan/Kyoto Museum of Contemporary Art)the other day.


My first encounter with the works of Rosanjin Kitaoji was at a fancy, traditional Japanese restaurant "Hyo-tei" in Kyoto that I was taken. The thinking of Hyo-tei, which got three stars in Michelin, is that vessels are clothing for the food. This thought accords with the thought of Rosanjin Kitaoji. At that time, I synchronized with the sense of beauty of Rosanjin.


Through this exhibition, I felt his spirit intensely that the world of Rosanjin Kitaoji was divided into the following seven categories: pottery, calligraphy, engraving, tea, flowers, food and the seasons.

On pottery: Pottery work is "a succession of quick and felicitous" decisions and movements.
On calligraphy: Calligraphy is "best when skill is shown in what appears to be unskillful."
On engraving: Go "where your fancy takes you."
On tea: Tea is "a university of aesthetic endeavors."
On flowers: Flower arrangement is the art of "painting with flowers."
On food: "Vessels are clothing for the food."
On the seasons: "Just praise nature and its beauty."


Looking at these seven categories, I could understand that Rosanjin Kitaoji was an artist, art director, and producer who unified all genres and constantly departed from the existing paradigm.
In addition, through this exhibition, I strongly feel the power of the works and words that Rosanjin left.

Rosanjin Kitaoji will continue asking us "what is beauty?"
I met a real giant of beauty, Rosanjin Kitaoji as a personification of beauty of harmony, a critic of all that we have lost and destroyed, and a leader of regeneration and rebuilding.

Saturday, November 28, 2009

美的「赤」に出会う

昨日、久しぶりに京都へ出向いた。
一番の目的は、何必館・京都現代美術館で開催中の「生活の中の美・北大路魯山人展」を鑑賞するため。この展覧会については、後日このblogで紹介します。
魯山人展を鑑賞した後、時間があったので、同行者と共に高台寺の紅葉を見ようということになった。


高台寺は、太閤秀吉の菩提を弔うために、秀吉夫人の北政所が開創した寺である。
高台寺には、あの千利休の意匠で、わざわざ伏見から移建した傘亭や時雨亭などの茶席、小堀遠州が創造した庭園が、紅葉という自然が創造したかラーと相まって、実に美しい風景を醸成していた。

その美しき「赤」の風景を眺めながら、私は北大路魯山人の言葉を思い出していた。
魯山人は自然が醸成する美しさを次のような言葉で評している。
「私の人生は生来『美』が好きだ。人の作った美術も尊重するが、絶対愛重するものは自然美である、『自然美礼讃一辺倒』である。山でも水でも石でも木でも、草木、言うにおよばず、禽獣魚介その他なんでもござれで、皆が美しくてたまらない。だから絶対好きである。自然美なしに私は生きて行かれない。」
あの美しき「赤」と表現すべき紅葉を目撃すると、全ての絵画、彫刻、デザインなど人工的な美しさが自然美をなかなか超克できないことを確認させられてしまう。魯山人も、京都で紅葉を見て、自然美の再確認を行ったのかもしれない。

では、私が出会った美的「赤」をPhotoでご覧いただこう。























Tuesday, March 10, 2009

神戸的フーディング

余りこのblogでは、グルメ的内容の記述をして来なかった。グルメ的記事を書いたのは一度だけだったと記憶している。
しかし今回は特別。私の若き友人が、神戸・北野坂に割烹「北野坂 栄ゐ田」を、昨日:3月9日にオープンしたため、ちょっと「食」について書いてみようかと思った。


このblogのたった一度のグルメ記事でも述べた、「フーディング」という概念が、昨夜「栄ゐ田」の扉を開いた瞬間、私の頭に浮かんだ。「フーディング」とは、「フード」と「フィーリング」の造語で、1999年頃にから生まれた新たな価値観である(フーディングの詳細は、以前の記事でどうぞ)。
その価値観に込められた意味は、味だけではなく、食器、照明、そして音楽などが重要な要素になってくる。「栄ゐ田」の印象は、この「フーディング」という価値観に妙にマッチングしていたのだ。

もう少し「フーディング」という食のトレンドについて触れておこう。料理、食の空間、おもてなしなどの要素が盛り込まれたこのフレーズを考えながら、昨夜「栄ゐ田」で食事をしていると、ある人間の名前が思い出された。このblogでも幾度となく触れている、北大路魯山人、その人である。彼は昭和の初期に、この「フーディング」という価値観の発想を持って、料理店経営、器作りをしていたのではないか。


彼のテクストを集めた「魯山人味道」の中でも、「食器は料理のきもの」「味覚と形の美は切っても切れない関係にある」ことについて語り、味覚の美、芸術の美、空間の美などを総合的にいかに楽しめるかを、極限まで突き詰めた「食」のトータル・デザインとして既に「フーディング」の確立を成し遂げていたのである。

そんなことをぼんやり思考しながら、昨晩「栄ゐ田」での食の宴が始まった。
ここからは、昨日提供された料理やお酒の数々を、写真を交えてご覧いただこう。

● 開運大吟醸 波瀬正吉・作

私は普段、日本酒を余り嗜まないのだが、昨夜の日本酒は実に美味かった。
なんと表現すれば良いんだろう。ワイン的なまろやかさと、貴腐的な上品な甘さが混在した風味が、私の舌にさらりと馴染んだ。軽やかな日本酒のその名も「開運大吟醸」。縁起の良いブランド名、そして杜氏さんの名前が前面に押し出される潔さが、その酒の美味しさにプラスされた感じである。醸造元は静岡県で、珍しお酒らしい。

● 日本酒リスト

この店の強みが、日本全国の名酒が揃っているリストからも伺える。

● 店内風景(その1)

都会の中の竹林を眺めながら、料理を食す。

● 店内風景(その2)

私が料理を食した場所。その食の空間に、東儀秀樹的雅楽サウンドが充満する。

● 先付け

鮑の煮付けの柔らかさに驚き、菜の花の和え物に春を感じるなど、その器に1つの春の世界が広がっていた。

● 箸置き

箸置き1つにも、その店の表現したい世界観を感じることができる。

● 刺身盛り合わせ

昨晩私が秀逸と感じた一品。伝助穴子を少し炙った刺身は、今まで私が食してきた穴子の食感を転回させる美味しさがあった。炙った鯖の刺身も、口の中に広がる旨味に、私は恍惚となっしまった。

● 椀物

筍、ワカメ、そして良く出しの効いた汁物。春のお吸い物である。

● 味噌漬け

真魚鰹の吟醸味噌漬け。吟醸の風味が、通常の味噌漬けの美味しさを一層引き立たせていた。
味だけでなく、真魚鰹の色合いと、緑柚の器の調和が実に見事であった。

● 小休止:名酒のボトル

上記でも言ったように、杜氏の波瀬正吉氏の名前がボトルの前面に。
もう1つの幻の酒「亀」も飲んでみた。これは熟成された酒にもかかわらず、日本酒のキリリッとした風味が口に広がり、食欲がより湧いてくる。

● 天麩羅

春野菜の天麩羅。天然のお塩で食することで、自然の旨味がダイレクトに味わえる。

● 鯖寿司

刺身の所でも書いた、少し炙った鯖で創造した押し寿司である。食べて貰えれば分かるのだが、これは鯖寿司の極みかもしれない。脂が乗った鯖が、何の臭みもなく、舎利と一体化した味は極上である。

● デザート

サツマイモを磨り潰したモノを団子にし、それを黒胡麻と葛で溶いたペーストを絡めて食す。

このように昨晩の食事を思い起こしながら、このテクストを書いていても、口の中にその味が蘇ってくる。
この食の記憶こそが、フーディングの基本なのかもしれない。

昨日オープンしたばかりの店だが、そこには神戸的フーディングが醸成されている。
これからも、今以上にコンセプトを明快にし、インテリアや料理にテーマ性を持たせて、神戸の食のトレンドを牽引して貰いたい。

私の記憶に、また1つ素晴らしい食の店が刻み込まれた。
私が経験した食を体感したい方は、是非「北野坂 栄ゐ田」に足を運んでいただきたい。

● アクセス・マップ

“北野坂 栄ゐ田”
住所:神戸市中央区中山手通1-22-13 ヒルサイドテラス5階

Tuesday, January 29, 2008

ふと考えた、世界認識の仕方

このブログでもよく触れている、クリエイティブ領域の人々との交流が今年になっても続いている。

先日も、漫画家を目指しながら、有名な漫画家先生のチーフアシスタントをやっている人と食事をした。その人と対話していて、「この人は、おそらく私の世界認識とは全く別物の認識の仕方をしているに違いない」ということを私は会話の端々から感じ取った。
今まで出会ってきたクリエイティブを生業にしている人達もまた、街中にに溢れるグラフィックやデザインの中で、明らかに「INなもの」と「OUTなもの」とを見分けているのだろう。いや、どんな平凡な風景だろうと、そこにある色彩や明暗、形状、などを、私とは全く違う見方で捉えていて、何かをそこから感じているんだろう、と思った。例えばだが、トマトを見たときに、私としては言葉としての「トマト」以外に感じることはないのだが、クリエイティブ領域の人々は「圧倒的な赤褐色」や「生命感あふれる質感」をビビッドに感じるのではないだろうか。

例えば、今年1月2日にNHKで放送された「プロフェッショナル 仕事の流儀 イチロー・スペシャル」を見て、イチロー自身の口から発せられる言葉を聞いていると、彼にしか見えていない空間があるように感じた。



また随分前に、吉本隆明「世界認識の方法」を読んでいて感じたのも、人は他者によって作られた自分に責任を負わなければならない→他者の視点→世界視線を持って、臨むことこそがクリエイティブな領域に踏み込んでいくことなのだろうと、ぼんやりとではあるが認識したものだ。



このように考えて来ると、世界を認識する方法・仕方は、実は私自身が思っているよりもバリエーション豊かなのかもしれない。
例えば、
● クルト・ゲーデルのように数字で世界を認識する数学者や物理学者 
● ジョン・ケージのように音楽で世界を認識する作曲家や声楽家
● 北大路魯山人のように匂いや味で世界を認識する料理人やソムリエ
● イチローのように運動で世界を認識するアスリート
● ジョージ・ソロスのようにお金で世界を認識する金融家
のような感じで。

どんな領域であっても最先端トップランナーとして走っている人間は、よりそれを先鋭的に感じているのではないだろうか?
私自身は、ファッション、アート、音楽、映画、書籍などに対してアンテナをいつも高く上げて、少しでも自分と違ったフィールドの感度を活性化させようと努力はしているんですがね。しかし、世界をバリエーション豊かな認識力で捉えている人たちにとってみれば、独自の世界認識の方法こそが生きる意味であり、世界そのものである、というようなこともあるのだろう。だから、なかなか私自身その壁を乗り越えるというのは容易なことではないと考えている。でも、その障壁が高ければ高いほど、チャレンジのし甲斐はあるんだけどね。

いずれにしても、この世界には本当に多種多様なキャリアがあり、それぞれのキャリアに特有の「認識の作法」というものがある。今後もそういった人々とのコミュニケーションを重ねていくことで、世界を豊かに認識し直すことになるのではないか、と期待している。