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Friday, January 11, 2008

Thinking Placeに関する考察

唐突ですが、皆さんにとって、思索の場所ってありますか?
最近哲学者であるハンナ・アーレント女史の書「思索日記」を読んでいて、ふと思ったのが私にとっての思索の場ってどこだろうかということ。
哲学者である彼女は、彼女が生きた時代に思索する場所をどこに求めていたのだろうか?大学の図書館?カフェ?



この問いを思いついたとき、とある社会学者の著書の一説が脳裏をかすめた。
the “third place”-locations other than home or work that are “neutral, safe, public gathering spots.”
家庭でも職場でもないソーシャルギャザリングの場としての第三の場所こそ、思索の場として相応しいといった感じの説明だったと思う。
行動・実行に伴う思索を行える場を探すとなると、これは大変骨が折れる気がする。理想としては、自宅の書斎が良いのだが、なかなか日本の住環境では限界があるように感じる。

私がアメリカで暮らしていたときは、思索/勉強の場としてのパワーを一番発揮できる場が多くあったように思う。その場の力とは、周りが真剣に考えたり、勉強しているので、自分もそれに負けじと思考する活力を与えてくれることを意味する。私にとってのアメリカ時代の思索の場は、大学の図書館を中心に、市の図書館、大学のカフェ、隣の大学のカフェなどをフル活用して、場の力を醸成する場所を探し続けていた。カフェは閃きや、発想などの柔軟な思考が創造される場としては最適だった。しかし修士論文など、長期間を費やして紡ぎ出される思索の結晶を創造するには、カフェなどは少しカジュアルすぎた。

私が修士論文を書き上げるのに一番よく利用したのは大学の図書館で、そこが主戦場であったように思われる。修士論文のように、1)「過去の分析」のためのデータソース解析、2)「現在の思考交通整理」をするためのメモ行為、3)「未来予測」のための内省的議論や他者からの助言、を駆使して作り上げる作業には、アメリカの大学付属の図書館に多く見られる、建造物の造りが重厚であり、ヨーロッパ調の内装と多くの本が醸し出す知的な雰囲気と人々が勉強している「場の力」のエッセンスは必須であったように思う。

日本には、まだまだアメリカのように知的格闘技を形成する第三の場、そしてそこに必要な「場の力」が大変少ないような気がする。
皆さんは、自分独自の思索の場を持っていますか?

Sunday, October 22, 2006

BRANDは細部に宿る

ここ数週間は仕事も含めて大変多忙な日を過ごしていたため、ブログ更新が疎かになってしまいました。
本日からまた再開、といった感じでしょうか。

今回は、私が長年仕事として関わってきた「ブランド」について書いてみたいと思います。



先日久々にセミナーに参加した。テーマは、「ブランド戦略セミナー:2006ベストグローバルブランドランキングから見るブランド価値向上のポイント」というものであった。このランキングは、毎年ブランドコンサルティングファームとして名高いInterbrand社と米誌Business Weekが共同で発表するもので、毎年私はこのランキングを大変興味深く見守っている。

このセミナーの中で、私は世界的に躍進する企業のブランド構築への執念、その企業で働く人々のモチベーションの高さなど、グローバルブランドとして世界が認める企業の懐の広さをあらためて感じ、よりブランドという一見抽象的な事象に対してもっと深い洞察力で向き合っていかねばならないと、気持ちを強くした。

"Brand"と聞いて皆さんは何を連想するであろう。
服、ジュエリー、車、時計、それとも。。。。
"Brand"というものは、企業名であったり、商品名であったり、と様々に形態を変えて、我々消費者の前に姿を現す。その姿の表し方は、インターネットを通じて、TVなどのマスメディアを通じて、口コミであったりと、様々である。
伝え方=コミュニケーションは多岐に渡る手法が考えられる中で、この難解な"Brand"力や価値を付けるために日本企業は努力を積み重ねてきた。しかし、今回のランキングを見ても分かることだが、上位に食い込んでいる企業や商品名は、Coca-Cola、IBM、Disneyなど殆どがアメリカ系企業である。この現状を目の当たりにすると、アメリカ系企業の"Brand"価値向上に向けた長年の経験蓄積に圧倒的な強さを感じると同時に、日本企業がここ数年で声高に言い出した「ブランディング」の底の浅さが見える感じがする。

マネジメントの世界から言うと"Brand"というものは最上流の代物であり、それを作り上げていくと言うことは大変骨が折れ、地道な努力を必要とする。このように重要なことだからこそ、もっと軽妙な語り口で"Brand"を語っていかなければならず、軽妙な語り口を持っている"Brand"こそ真の"Brand"と言えないだろうか。
ユダヤ人の政治学者ハンナ・アーレントが「イエルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告」(みすず書房)という著作の中で、アドルフ・オットー・アイヒマン(この人物なしに、ナチスのホロコーストはなかったと評されている)がイスラエル政府に裁かれる過程を中心に、この歴史上稀に見る大量虐殺の真実を、大変重要な事象だからこそ、皮肉を込めた軽妙な語り口で表現することを実践している。
この実践は、"Brand"を語ることにも、この精神を私は忘れるべきではないと考える。



"Brand"というのは、商品でも、企業でも、地名でも、大学でも、宗教でも、ある言葉が存在したときにその言葉が呼び覚ますイメージがあって、それが社会に伝播している、知られているという状態を言うのである。"Brand"は様々な所(現在では、パーソナルブランディングもある)に存在する=「"Brand"は細部に宿る」からこそ、もっと分かり易い言葉で、この難物を表現していくことに私は楽しさを覚えるのだ。