最近哲学者であるハンナ・アーレント女史の書「思索日記」を読んでいて、ふと思ったのが私にとっての思索の場ってどこだろうかということ。
哲学者である彼女は、彼女が生きた時代に思索する場所をどこに求めていたのだろうか?大学の図書館?カフェ?

この問いを思いついたとき、とある社会学者の著書の一説が脳裏をかすめた。
the “third place”-locations other than home or work that are “neutral, safe, public gathering spots.”
家庭でも職場でもないソーシャルギャザリングの場としての第三の場所こそ、思索の場として相応しいといった感じの説明だったと思う。
行動・実行に伴う思索を行える場を探すとなると、これは大変骨が折れる気がする。理想としては、自宅の書斎が良いのだが、なかなか日本の住環境では限界があるように感じる。
私がアメリカで暮らしていたときは、思索/勉強の場としてのパワーを一番発揮できる場が多くあったように思う。その場の力とは、周りが真剣に考えたり、勉強しているので、自分もそれに負けじと思考する活力を与えてくれることを意味する。私にとってのアメリカ時代の思索の場は、大学の図書館を中心に、市の図書館、大学のカフェ、隣の大学のカフェなどをフル活用して、場の力を醸成する場所を探し続けていた。カフェは閃きや、発想などの柔軟な思考が創造される場としては最適だった。しかし修士論文など、長期間を費やして紡ぎ出される思索の結晶を創造するには、カフェなどは少しカジュアルすぎた。
私が修士論文を書き上げるのに一番よく利用したのは大学の図書館で、そこが主戦場であったように思われる。修士論文のように、1)「過去の分析」のためのデータソース解析、2)「現在の思考交通整理」をするためのメモ行為、3)「未来予測」のための内省的議論や他者からの助言、を駆使して作り上げる作業には、アメリカの大学付属の図書館に多く見られる、建造物の造りが重厚であり、ヨーロッパ調の内装と多くの本が醸し出す知的な雰囲気と人々が勉強している「場の力」のエッセンスは必須であったように思う。
日本には、まだまだアメリカのように知的格闘技を形成する第三の場、そしてそこに必要な「場の力」が大変少ないような気がする。
皆さんは、自分独自の思索の場を持っていますか?