Wednesday, July 15, 2009

1Q84≠1984:ポリフォニーな世界観

私はこの物語を、なかなかレビューする気にはなれなかった。
どう表現したら良いのかは分からないが、久々に読み終えるのが何だか名残惜しくなってしまい、読了後も余韻に浸っていたかった、というのが本音だろう。

1ヶ月以上前に、村上春樹の7年ぶりの新作は発売された。そこから2回読み返し、今回のストーリーのベースになったと推察できるジョージ・オーウェルの「1984年」も読み返し、やっと本日レビューらしきものを書こうかと思い到った。1949年にジョージ・オーウェルは、近未来小説として「1984年」を描いた、しかし村上春樹はそれとは全く反対に2009年に、こうであったかもしれない世界、つまり近過去としての物語「1Q84」を描いた。


私は基本、村上春樹の小説に関しては、余りレビューなどを書かず、自分の世界で完結させることを今までは好んでいた。今回の小説に関しては発売前からえらく話題になり、ちょっと社会現象にまで飛躍しているので、私なりのこの小説への向きあい方も含め、ちょっと書き残しておくことにした。

現在存命の小説家の中で、私が唯一処女作から読み続けているのが村上春樹。中学2年生の時、手に取った「風の歌を聴け」の鮮烈さから、私をフィクションの虜にした。彼の描く世界は、そのセンテンスの余白に多様な声が隠されている。今回の作品で言えば、あのオウム真理教事件的事象であったり、1949年(ジョージ・オーウェルが「1984年」を著した年)生まれの村上春樹が辿った同時代的な精神史であったり、「壁と卵」のエルサレム賞での村上スピーチの比喩的構成であったり、30歳の主役の男女以外の脇役たちが実に知的な文脈で我々読者に対話を挑んだり、といった具合に多声的であることは、今までの村上作品と共通している。

オーウェルの「1984年」がファシズム的システムへの批判であったように、「1Q84」で村上春樹が投げかけたメッセージも大文字の社会システム的な眼差しへの明確な批判であったように思う。
村上春樹が今年行ったエルサレム賞でのスピーチ:「壁と卵」を思い起こすと、あの時点からこの物語の序章が始まっていたのかもしれない。「壁=人間が創造したシステム=1Q84における邪悪なもの」vs.「卵=1人ひとりの人間=30歳の男女の主人公と、彼らをサポートする脇役達」という、大きな意味での構図が浮かび上がってくる。

このブログを読んでいただいている皆さんは、「1Q84」を未読の方もいると思うので、この1,000ページ以上の大作のコアの部分には触れないように、キーワード化によってこの作品を振り返っておきたい。

<1Q84を巡るキーワード&フレーズ>
現実世界とちょっとだけずれた世界/新興宗教/オカルト/DV/切ない純愛/特定のサウンドの共鳴/神話的構造/村上作品初の父性の発見/小説のリライト/造語的世界/レイモンド・チャンドラー的「殺し方」/テロル/あなたの空に月はいくつ浮かんでいますか?/チェーホフの「サハリン島」/ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」/ビッグブラザー的邪悪なもの/地下鉄サリン事件&阪神大震災における非日常的空間/

以上が私がピック・アップしたキーワード&キーフレーズになる。しかし、これらは私が「1Q84」を読み進める中で感じたものだから、皆さんにとってのキーになるテクストが表出してくると思います。
今回の作品は、文学的エッセンスもほど良く散りばめられ、現代社会が抱える多くの病巣的プロットも含まれる中でこのストーリーは展開します。だから、村上春樹の熱心じゃない読者でも、真のフィクションを楽しみたいと思われる方には一読をお薦めします。「1Q84」は必ずや皆さんの心に突き刺さる「何か」を提示してくれるでしょう。

<音的&心的「1Q84」モノローグ>


「1Q84」では、ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」がバックグラウンド・ミュージックとして物語のエッセンスのように鳴り響く。その管弦楽曲によって、物語の主人公達は1984年とはちょっとずれた1Q84年に迷い込む。私はこの物語の入り方が、堪らなく好きである。

そして、物語の終わり近くで、昨年の私とシンクロする部分があった。「明るい言葉は人の鼓膜を明るく震わせる」 というテクストである。昨年病床の父が、最後には意識が無くなった時、私は父に対して家族で旅した世界各地で遭遇した楽しかった出来事などについて、父の耳元で明るく話していたことを、その物語は思い出させた。私は父の鼓膜を明るく震わせることができたのだろうか。

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