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Tuesday, September 12, 2006

身体を自由にするEye Wear


私は小学生の頃から強い近視で、ずっと眼鏡のお世話になっている。しかし、小学生から高校生時代までは、私の感性にあったデザイン、質感などを兼ね備えた眼鏡が存在しなかったため、眼鏡をかけることに抵抗があった。その抵抗感がなくなったのは、暫くの期間をおいてアメリカ留学時にある店に出会ったから。

その店とは、その当時NYでは殆ど無名に近かったSelima Optique。現在では独自ブランドも市場に出回り、Eye Wear市場に存在感を示している。私が訪れた当時はこぢんまりしたお店に、チャイニーズのお洒落な店員が一人で対応してくれる店だった。そこで、alan mikliとうEye Wearに出会い、私の眼鏡好き人生がはじまった。alan mikliとの出会いで、ファッションの一部としてのEye Wear=身体を自由にする眼鏡を意識したと言っても過言ではないだろう。

それ以降は、スタイリッシュなEye Wearを探す旅がはじまった。米国留学を終えて日本に戻ってからは、神戸・元町にある主張するEye Wear提案を行ってくれるdecoraで、On時 and OFF時のEye Wearを作っている。この店の名前の由来は、どうもポストモダン思想のコアエンジンとなったDeconstruction(脱構築)からきているみたいだ。この用語は、フランスの思想家・ジャック・デリダの考え方の根本でもある。


decoraで私は様々なEye Wearに出会い、そして日常の中で私の身体の一部として、無意識の領域まで入り込んでいる。最初の出会いは、「999.9(フォーナインズ)」であり、最近のお気に入りは「Theo」。ここのEye Wearには、アートの香りと、エロティックな香りが漂うという、その一種アシメトリーな所が私を虜にしている。今年の夏のヘビーローテーションのサングラスも、Theoのものが活躍した(写真に撮ってみました)。当分の間は、Theoを愛用していくと思うが、今後私の前に未知なるEye Wearが出てくることも望んでいる。

最後に、いつもお世話になっているdecora店長のU氏にThanks a lotの気持ちを伝えておこう。

Saturday, September 02, 2006

身体を自由にする衣服、食事



哲学の領域には、身体論というものがある。この領域で私がいつも参考にしているのが、鷲田清一氏の著作である。彼は臨床哲学者として、哲学をベースに身体、他者、果てはモード論まで論じる希有のThinkerである。彼の著作にもあったと記憶しているのだが、身体を自由にするファッション=衣服を着ることがもう一枚の皮膚をまとうがごとく、自然に身体にフィットする、ということを示唆していた。

身体を自由にする衣服、眼鏡、食事など、人それぞれの想い、感じ方があるでしょうが、私には自身の身体を自由にするモノを提供してくれる店が現在存在します。これは本当に喜ばしいことで、こういう「場」は今後も大事にしていきたいと考えている。

前置きが長くなったが、その大事な「場」で起こった昨日の出来事を記したい。
まず一つめの「場」は、前回のブログでも紹介したCINQUE CLASSICOである。ここで、昨日・9月1日~3日まで「Festa Completo SU MISURA di Autunno e Inverno 2006-07」と題したスーツ・ジャケットのオーダー会が開催されている。私も今までに2度オーダーさせて頂いたのだが、仕上がった衣服は私を自由にしてくれた。
昨日はこの「場」を通して友人となったひであき氏と、私を自由にしてくれる眼鏡を提案して頂いているセレクトショップ・decoraのU氏がジャケットをオーダーされるのにお付き合いした。ご両者とも、ご自身の身体を自由にするジャケットを手にされる日が楽しみですねー。

二つめの「場」は、Nstyle Cafeです。このカフェは、ひであき氏にご紹介頂き、昨晩氏と共にご一緒させて貰いました。店内は、ポストモダンな快適空間が広がり、隠れ家的な佇まいが<癒し=身体の自由>を与えてくれます。勿論オーナーズシェフやスタッフの接客力も、その空間をプロデュースしていることは言うまでもありません。何より、和洋折衷の料理=秀逸な穴子丼、岩ガキ、カレイの昆布締め、地鶏のたたき、などなど、もうDeliciousの一言でした。最後のデザートでいただいた、Iceカプチーノに描かれていた「ブースカ」の絵が、それまでいただいた料理群を引き立たせました。

こうして、身体論を考えさせられた一夜が瞬く間に過ぎ去っていった。