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Tuesday, June 30, 2009

My 100 Standards(7/100):Levi's(R) Fenom Cropped

今回も私のモノに対するストーリーにお付き合いいただきたい。
7回目のストーリーは、私がここ数年愛用し続けているジーンズに対するお話です。

男性の装いを考えるとき、パンツって結構ポイントになるんですよね。
どんなに上品で、立派な上着を着ていてもパンツが不粋であったりすると、装いがトータルで台無しになってしまう。と言うことは、パンツさえ上質なモノをチョイスしていれば、ある程度格好がつくってこと。

私にとっての上質なパンツというのは、シンプルなデザインのフラノパンツであったり、ウール×シルク混のパンツであったりする。じゃあ、カジュアルにおける定番となると、やはりジーンズになるだろう。今まで、ハイブランド系のジーンズも数多く穿いてきたが、やはり基本はLevi's。その中でも、ここ数年はLevi's(R) Fenomを穿き続けてる感じがする。

Levi's(R) Fenomは2004年11月、藤原ヒロシのディレクションによってLevi'sが持つ歴史&ディテール・アイコン、物造りへの拘りを維持しつつも、ストリートから影響された刺激を吸収し、アウトプットしたイノベーティブなジーンズである。特に、Levi's 505や207をベースとし、エッジの効いたクリエイティブやディテール、素材・縫製・付属品などの服の創造を支える基盤は、Levi's(R) Vintageに代表される、素晴らしいクオリティを踏襲している部分にも魅力を感じる。

愛用のLevi's(R) Fenom Cropped3本(時計回りにGrey Color、Indigo、Blackの各ジーンズ)


特に初夏から初秋頃まで、私はLevi's(R) FenomのCropped(7分丈と言われたり、半端丈と言われたりする)を愛用する。つまり、Levi's(R) Fenomがこのシーズンにおける自分の装いの全てを決めている。

サイドのジッパーによる機能美、サンドリー&プリントのカラーをパープルやブルーなどにする遊び心など、クリエイティブ魂溢れるこのジーンズを、暫く私は愛用し続けるだろう。

Friday, January 16, 2009

頭の上のお洒落

ロラン・バルトは、自著「モードの体系」の中で次のように述べている。
「衣服とは裸体をまさに隠しながら誇示しようとする」と。

では、頭もそれ自体を隠しながら誇示しようとするお洒落ってのもあるんじゃないかと思う。
そこで、私自身の頭を隠しながら誇示してくれる帽子達をここで紹介してみよう。

ブルーグレーのBorsalino

このBorsalinoは、神戸で帽子といえばここと言われる神戸・元町にある神戸堂で購入したモノ。
帽子好きなら一度は憧れる世界で最も有名といっても言い過ぎではない「ボルサリーノ」。1857年にジュセッペ・ボルサリーノ氏によってイタリア、アレッサンドリアの地にフェルト帽の芸術的職人だけを集めた工場を
設立したことから歴史が始まった。今では、約150年と言う年月を経たブランドとして確固とした地位を構築。
ラビットファーで仕上げられたこの逸品こそ頭上のお洒落として、その存在感を誇示するモノであろう。

unrivaledとRESONATEとのコラボレーションによるウールハット


Silver Ringがツバに付加された、デザイン性に富んだハット。ヒョウ柄の耳当てを付けアレンジされた部分のデザインに魅了された。

kangol×fragment design


kangol×fragment design×村上隆


創業70年を迎えた英国の老舗帽子メーカー・kangolと藤原ヒロシ率いるデザイン集団:fragment designのコラボレーションによるハンチング。ホワイト・ハンチングはkangol×fragment design×kaikaikiki(村上隆)のトリプル・コラボレーションによるモノ。これは、伝統、藤原ヒロシ的リアルクロージング思想、そして現代アートの先端を行く村上隆が創造した1つの作品である。

knagol×COMME des GARCONS JUNYA WATANABE MAN

ジュンヤワタナベもkangolと共演。歴史性と斬新性の融合は次世代型ハンチングを創造する。

父親から継承したkangol


このように、私は歴史、伝統、革新などのキーワードを頭上にまとい、今後も歩み続けていく。

Monday, December 08, 2008

黒の誘惑

このBlogでも取り上げたことのある、COMME des GARÇONSがまた新たな挑戦を使用としている。
今年は、LOUIS VUITTONやH&Mと組んで、新たなクリエイションの地平を切り開いた。
そして来年1月からは、"Black COMME des GARÇONS"という新たな期間限定ショップを構築し、消費者と市場に今までとは違うShop形態とクリエイティブを伝えていく。


COMME des GARÇONSの創造者・川久保玲はかつて、「未来へのかたち。未来と根源の調和。相反するものから生まれる力、創造。完成されていない荒削りなもののみが放つ強さ」ということを市場に訴えかけた。
今回の試みも、「黒」というカラーへの拘りと、その魅力をいかに伝えていくかに成功の鍵はあるだろう。しかし、必ずや「少年のような」気持ちを持ったクリエイター達は、未完の荒削りの思考で、世界的景気衰退の市場に風穴を開けてくれることであろう。

Monday, September 22, 2008

CINQUE CLASSICO:Art、Sound、&Fashionの饗宴(1)

ちょうど1週間前、神戸のダウンタウンで1つの宴が催された。
私にこのblogを書くキッカケを与えてくれた藤原オーナーが、神戸に創造したクラシコイタリア系ブティック「CINQUE CLASSICO」のリニューアルを祝う宴である。


この夜は、ファッション・ビジネスもその一角を占めるグローバル市場にとって、大変衝撃的な事件:リーマン・ショック(リーマン・ブラザーズ破綻による世界経済の動揺)という事象が、神戸という日本の1都市で開催されたRenewal Partyという華やかな舞台裏で起こっていたことも明記しておきたい。

このPartyに参加して考えたことがある。それは、ファッションの行方についてである。現在、グローバル経済の中でアパレル産業はLV Groupのようにどんどんコングロマリット化していき、デザイン、素材などのクリエイティブ要素が画一化していくのではないかという感覚に襲われることがある。そのような状況の中で、ファッションについて、語るべきことは残されているのか?ファッションなどが創造するトレンドは、今なお人々の深層心理を表象しているのか?また、我々がファッションに求める「装い」は、独自のアイデンティティを表現しうるのか?或いは、ファッションが理想の自分に近づくための手段として、今後も機能しうるのか?このような疑問符が頭を巡っていた。
CINQUE CLASSICOが提案するファッション形態は、これら私の疑問に対して、トレンド=High Brandが全てではなく、特にメンズ・ファッションに於いては、クラシコイタリアという伝統と革新の融合物の中に、新しい時代の扉を開くクリエイティブな発想があることを示してくれている。
今回のRenewal Partyを通して、CINQUE CLASSICOがそのことを我々に対して、高らかに宣言しているかのように感じた。

以下で、当日の模様を写真で振り返ってみよう。
写真は、Partyを待ちわびる空間から、PartyにおいてJammingしたJazz演奏という、静から動へのプロセス順に並べてみた。





















ここまで、当日の風景を写真で振り返ってみました。
Party当日、私がどんなコーディネートで臨んだかを、少しだけ触れておきます。

今回のコーディネートは、今季のトレンド・カラー「紫」を主体に組み立ててみた。
敢えて、クラシコイタリア・スタイルではなく、アンティークとも言える15年前に購入したGIANNI VERSACEのグレンチェック(実はその中に淡いパープルカラーが含まれている)Double-breastedジャケットに、これまた15年前に購入したパープルが主体のドレスシャツを着用。胸元には、CINQUE CLASSICOで購入した、Franco Jacassiのラベルピン(パープル・ストーン)を付け、チーフも淡い紫色をチョイス。更にパンツは、Levi's Fenomのブラックサテン、シューズはVISVIMのFBT。まさに、クラシコイタリアを脱構築したスタイルで臨んだわけである。

次回blogでは、今回触れていないArtとFashionの融合部分について書いてみたい。
ヒントは、この写真。

Monday, March 31, 2008

brand論再考: セミナー、ブランド進化、そしてコムデギャルソン



今回のテーマは、"brand論再考"としてみた。以前このブログで、ブランドに関しては結構詳しく述べたつもりでいるので、今回は最近私が出席したブランド戦略セミナー、そしてComme des Garçonsから届いたフライヤーを題材にブランド進化について論じてみたい。

先々週になるが、大阪で開催されたブランド戦略セミナーに参加した。このセミナー、毎年1回イングランドのブランドコンサル企業が主催して行われるものだ。
今回のセミナーで興味を持ったのは、企業ブランド進化の過程を、あの「種の起源」を著したチャールズ・ダーウィンの進化論にシンクロさせて議論をしていた部分。
ダーウィンは進化論の中で、動・植物の進化の過程には時間軸に沿って大進化と小進化があり、その進化速度や進化度合は種によってまちまちであるが、ゴールはその種が環境の変化などに適応した形で継続的に生存できるかどうかが重要としている。確かに企業も同じで、持続的な企業成長を目指すのであれば、企業進化とブランドの確立ということが大変重要なファクターとなってくる。
企業ブランドの確立というものには、顧客(一般消費者)、社会、株主、そこで働く社員など、一般的にステークホルダーといわれる存在が大変大きな影響力を与えるため、単純に動・植物の進化と、企業ブランドの進化を同列に並べて議論するのは無理があると思われるかもしれない。しかし、今回のセミナーでの論点は、そのような外的要因を全て取り去った形での「進化」というファクターに視点を置いて考えた部分に、面白さを感じた訳。

こんなことをセミナー後も、私の頭の中で考えを巡らせていた時、ギャルソンから最近私の手元に届いたフライヤーのことを思い出した。
コム・デ・ギャルソン(Comme des Garçons 、日本語で、「少年のように」の意味)は日本のファッションデザイナー・川久保玲が1969年に設立したプレタポルテ(高級既製服)ブランド。
ギャルソンは約40年間、上で述べたようなブランド進化を時には大きく、時には小さく、その時代時代に合わせて成し遂げてきたのではないだろうか。



そんなギャルソンの広報活動が最近過激に攻撃的で、Hip(かっこいい)だ。新たなブランド進化を、世界に向けて宣言しているかのようでもある。



フライヤーの写真を見てもらっても分かるように、この度肝を抜かれる前代未聞の演出にFashionを生業にすることへの凄みを感じた。私が親しくさせてもらっている、「百花堂」のクリエイティブ・ディレクターの方にも、物づくりに対する同様の凄みを感じる。



いずれにしても、送られてきたフライヤーはアート作品としても大変素晴らしい。本当に、アート写真集を見ている感じで魅了された。



このフライヤーを眺めていると、ArtistのチョイスにもComme des Garçonsの世界が明確に現れている。
しかし、そんなArtistそのものに看板を預けたりはしない。ArtistをComme des Garçonsカラーに仕立て上げてこそComme des Garçonsたる所以なのである。



優れたクリエイティブの分業がリンクし、融合されて初めてComme des Garçonsになるのである。
ここが世界に類を見ないComme des Garçonsというブランドの価値なのではないだろうか。



今更でもないが、現代美術をFashion=流行に取り込んでしまう手法こそ、Fashionそのものでもあるといえる。しかし、これも先頭を走っているポジショニングにあるブランドでなければ相当陳腐に陥ってしまう。そのギリギリなエッジの所を保持するための日々の鍛錬が、なかなか他者には真似のできない部分であろう。時代にあがなう過激さを失って、物づくりに固執するのではもうそれはFashion=流行とは呼べないのではないだろうか。



今回のセミナーやComme des Garçonsの試みを見ていて感じるのは、"brand"維持および向上への飽くなき挑戦である。"brand"とは、企業であれ、モノであれ、その価値を維持し続けるには相応の覚悟=準備が必要で、戦略や戦術も重要だが、最終的にはそのブランドが持つ力を命がけの跳躍で、どこまでその価値をストレッチできるかどうかにかかっているのではないか、ということを再認識させられた。

Monday, December 17, 2007

服との対話: Hyakkado 5th Anniversary Party

久しぶりの更新である。
先週はバタバタしていて、更新したいテーマがあったのだが、今日になってしまった。

1週間ちょっと前、Dress Code "Flower"(花=華)という個性的なPartyに参加した。
そのPartyとは、私が2年ちょっと前から親しくさせてもらっている「百花堂」のブランド立ち上げ5周年を祝うものであった。ブランドネームからも分かるように、ここの服にはラグジュアリーな生地(シルク、ベルベット、ちりめん、大島紬など)と華のあるデザイン&スタイル提案で、日本のファッション地平に新たな価値を創造した。

この百花堂ブランドは、隠し絵のように、私達現在の日本人達が忘れそうになっている日本人の心と日本の美を浮かび上がらせる服、バッグ、帽子、などを提示してくれる。現在女性のアパレルラインしかないのだが、男性の私でもそのコレクションを見ていると、「美」というものを再認識させられる。ぜひ、そのような感覚をメンズラインを構築することによって、男性諸氏にも体感させていただきたい。

皆さんに百花堂をリアルまたはバーチャルに体験してもらうには、店舗やウェブを訪問していただければよいのだが、私自身がこのブランドと出会って、感じたことを記号化してみると、

オリジナル/インディビジュアル/印象的/リミティッドエディション/第一人者/影響力/コレクター/変化/止められない勢い/想像を超えた/ポストモダン/探究的/スタイリッシュ/Jamming/革新的/謙虚/スマート/グローバル/エレガント/耽美的/複眼的、など

私の感性を刺激するターミノロジーが頭に浮かんでくる。

このような百花堂が主催した5th Anniversary Partyには、日本中から知的な美意識を持った方々集っていた。

その模様は、

http://www.hyakkado.com/blog/event/5anniversary_party/408
http://www.hyakkado.com/diary/style/423
http://www.hyakkado.com/diary/music/421
http://www.hyakkado.com/diary/flowers/411

に詳しくレポートされているので、ご覧になってみてはいかがでしょう。そして、この「美」と「知」を体感し、その服に袖を通してみたいと感じた方は、店舗を訪れてもらえたらと思います。

Party後、参加者に渡された百花堂店舗の中で実際に流されているMusic群のコンピレーションCD











最後に、素敵なPartyに招待していただいた、百花堂ブランドをプロデュースし、クリエイトされているmiwaさん&maoさんに、Special Thanksをこの場を借りて述べておきたい。そして、今後もお二人が生きてきた時代と現在が、店舗がある京都という「場」でエレガントに交錯し続けていくことを願っています。

PS:私が撮影したParty模様の写真も掲載しておきます(犬楽の皆さん、ピアノ・アーチストのaricoさん、ブリリアントなJamming最高でした)。







Friday, October 19, 2007

ファッションショーにおける発想の転換から見えたこと

ちょっと面白い発想の転換に繋がる出来事が私のアンテナに触れた。

先日行われた"The Wind by Issey Miyake with James Dyson"と銘打たれたファッションショーがそれである。



三宅一生とあのサイクロン掃除機で有名なJames Dysonが先日パリで「the wind」というテーマでコラボレーションしたのである。
三宅一生とダイソンの共通項は何かと考えた時、それは常に"Innovation"を追求してきたことにあるのではないか。時代のトレンドにアンチテーゼを投げかけ、その都度様々な批判に晒されながらも力強く前進する。両者にはその強い意志と、凄みみたいなものの存在を感じる。

今回のショーにおけるエッセンスとして、「発想力」、「具現化力」、「創発力」の3つが挙げられると思う。イッセイミヤケとジェームス・ダイソンという二人の著名なInnovative Creatorが織り成した今回のショーでは、一般的には縁遠いと思われる洋服と掃除機、それぞれのコンセプトを噛み砕いて、デザインとエンジニアリングは常に対で共存するという「大文字の」テーマを社会へ発信したことに意義があったのではないか。2つの異質な存在が手を組み、今回で言えば1つのイベントに昇華させようという「発想」。そして、ダイソンがステージセットを担当し、ファッションショーのランウェイを掃除機のホースからイッセイミヤケの服をまとったモデル達が(時代と言う)風に吹かれて登場してくるという「具現化」。ただ単に奇を衒ったということではない、デザインとエンジニアリングの共生というメッセージが発信された「創発」。

私がここで挙げた3つのエッセンスは、現在世界中の様々な業界で行われているコラボレーションのキモになるでしょう。一般的に違った領域同士でのコラボレーションは、違った価値を持ったもの同士が交配することによって、化学反応を起こし、相乗効果を持った商品であったり、サービスが生まれることを期待される。しかし実際には、ただ単に「コラボしました」的な事柄が多いのではないだろうか。
折角知恵を絞ったコラボレーションであっても、シナジー効果を創造する商品やサービスを具現化し、期待以上の着地を見せなければ意味が無い。

今回の出来事は、ビジネス現場にとってもメルクマールとなるのではないだろうか。

Tuesday, September 12, 2006

身体を自由にするEye Wear


私は小学生の頃から強い近視で、ずっと眼鏡のお世話になっている。しかし、小学生から高校生時代までは、私の感性にあったデザイン、質感などを兼ね備えた眼鏡が存在しなかったため、眼鏡をかけることに抵抗があった。その抵抗感がなくなったのは、暫くの期間をおいてアメリカ留学時にある店に出会ったから。

その店とは、その当時NYでは殆ど無名に近かったSelima Optique。現在では独自ブランドも市場に出回り、Eye Wear市場に存在感を示している。私が訪れた当時はこぢんまりしたお店に、チャイニーズのお洒落な店員が一人で対応してくれる店だった。そこで、alan mikliとうEye Wearに出会い、私の眼鏡好き人生がはじまった。alan mikliとの出会いで、ファッションの一部としてのEye Wear=身体を自由にする眼鏡を意識したと言っても過言ではないだろう。

それ以降は、スタイリッシュなEye Wearを探す旅がはじまった。米国留学を終えて日本に戻ってからは、神戸・元町にある主張するEye Wear提案を行ってくれるdecoraで、On時 and OFF時のEye Wearを作っている。この店の名前の由来は、どうもポストモダン思想のコアエンジンとなったDeconstruction(脱構築)からきているみたいだ。この用語は、フランスの思想家・ジャック・デリダの考え方の根本でもある。


decoraで私は様々なEye Wearに出会い、そして日常の中で私の身体の一部として、無意識の領域まで入り込んでいる。最初の出会いは、「999.9(フォーナインズ)」であり、最近のお気に入りは「Theo」。ここのEye Wearには、アートの香りと、エロティックな香りが漂うという、その一種アシメトリーな所が私を虜にしている。今年の夏のヘビーローテーションのサングラスも、Theoのものが活躍した(写真に撮ってみました)。当分の間は、Theoを愛用していくと思うが、今後私の前に未知なるEye Wearが出てくることも望んでいる。

最後に、いつもお世話になっているdecora店長のU氏にThanks a lotの気持ちを伝えておこう。

Saturday, September 02, 2006

身体を自由にする衣服、食事



哲学の領域には、身体論というものがある。この領域で私がいつも参考にしているのが、鷲田清一氏の著作である。彼は臨床哲学者として、哲学をベースに身体、他者、果てはモード論まで論じる希有のThinkerである。彼の著作にもあったと記憶しているのだが、身体を自由にするファッション=衣服を着ることがもう一枚の皮膚をまとうがごとく、自然に身体にフィットする、ということを示唆していた。

身体を自由にする衣服、眼鏡、食事など、人それぞれの想い、感じ方があるでしょうが、私には自身の身体を自由にするモノを提供してくれる店が現在存在します。これは本当に喜ばしいことで、こういう「場」は今後も大事にしていきたいと考えている。

前置きが長くなったが、その大事な「場」で起こった昨日の出来事を記したい。
まず一つめの「場」は、前回のブログでも紹介したCINQUE CLASSICOである。ここで、昨日・9月1日~3日まで「Festa Completo SU MISURA di Autunno e Inverno 2006-07」と題したスーツ・ジャケットのオーダー会が開催されている。私も今までに2度オーダーさせて頂いたのだが、仕上がった衣服は私を自由にしてくれた。
昨日はこの「場」を通して友人となったひであき氏と、私を自由にしてくれる眼鏡を提案して頂いているセレクトショップ・decoraのU氏がジャケットをオーダーされるのにお付き合いした。ご両者とも、ご自身の身体を自由にするジャケットを手にされる日が楽しみですねー。

二つめの「場」は、Nstyle Cafeです。このカフェは、ひであき氏にご紹介頂き、昨晩氏と共にご一緒させて貰いました。店内は、ポストモダンな快適空間が広がり、隠れ家的な佇まいが<癒し=身体の自由>を与えてくれます。勿論オーナーズシェフやスタッフの接客力も、その空間をプロデュースしていることは言うまでもありません。何より、和洋折衷の料理=秀逸な穴子丼、岩ガキ、カレイの昆布締め、地鶏のたたき、などなど、もうDeliciousの一言でした。最後のデザートでいただいた、Iceカプチーノに描かれていた「ブースカ」の絵が、それまでいただいた料理群を引き立たせました。

こうして、身体論を考えさせられた一夜が瞬く間に過ぎ去っていった。