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Wednesday, April 29, 2009

顔の不可能性に出会った

以前、ベルギー在住の現代Artistの友人から、人間の手を描く難しさということを聞いたことがある。

先日足を運んだ、「20世紀のはじまり ピカソとクレーの生きた時代展」(於兵庫県立美術館)では、手ではなく、顔を描くことの多様性、困難さに出会った感じがした。
画家でもあり、彫刻家でもあったアルベルト・ジャコメッテイは、「顔を描くのは実にむずかしい。風景や静物ならまだ何とかなる。しかし顔を描くことはほとんど不可能に思われる、それに成功した人は1人としていない」と言い切っている。

私はプロフェッショナルなアーテイストの視線というものが分からないが、考えてみると、顔を描こうと思えば、我々は例えば建物の表象を上手く枠の中に収めるというような単なる構図的配慮ではなく、その周囲の空間の変容そのものを描かなければならないということは理解できる。しかし、言葉にしてしまえば簡単に思えても、実際に他者に影響を与えるような、クリエイティブに顔を描くとなると、私にとっては不可能のように思えてしまう。


そして私は、今回の展覧会でそんな顔の不可能性に出会った。
今回のExhibitionは、「表現主義的傾向の展開」「キュビズム的傾向の展開」「シュルレアリスム的傾向の展開」「カディンスキーとクレーの展開」と4つの断章に分けられ、パブロ・ピカソパウル・クレー達が若く才気溢れる創作意欲を持っていた1900年代初頭から、脂が乗りある一定のポジションを確立していた1940年前後までの作品群が、私に圧倒的な存在感を見せつけた。

その中でも、「キュビズム的傾向の展開」の章で展示されていたピカソの「鏡の前の女」に惹き付けられた。
そこに描かれた女性の顔は、口の位置が正面と側面を繋ぐ蝶番として機能していたが、他の作品では口が正面像にあたる顔の隅に描き込まれたりしており、その対照的な作風で観る者の視線に動的風景を見せつける。
巨匠・ピカソでさえも、顔に対しては多様なアクセスを試み、顔を描くということへの飽くなき欲望が伝わってきた。


皆さんも、顔の不可能性、巨匠達の顔への欲望を、覗いてみてはいかがだろう。

Saturday, February 07, 2009

日本初のクリエイティブ・ビジョナリーとは?

文化、芸術、思想、ビジネスなど様々な分野で、その先を見通す力のある、洞察力のある人のことを、「ビジョナリー」と呼ぶ。
日本で初めてのビジョナリーは誰なのかと考えた時、それは千利休なんじゃないかと思い当たった。

そういうことを考えていた時、pen最新号で「日本初のクリエイティブ・ディレクター 千利休の功罪。」という特集が組まれていた。


その特集は見事に、千利休の本質を掘り起こし、今一度この文化ヒーローについて考える機会を与えてくれている。
penで分析されている千利休の本質をキーワード化してみると、
衣食住のトータル・デザイン/ロングライフ・デザイン概念のパイオニア/個の美意識/Individual/表層的な視覚としての「寂び」/形而下的な価値観としての「侘び」/From High-End to Low-End/西田幾多郎的「無」の思想/ミニマル/目利きの哲学/キャッチコピーの達人/茶の湯の方法論や組織などのシステム化/美の方程式確立/黒の美/美学的殉教者
などとなるであろう。

penが描く利休像だけでも、十分そのビジョナリー的要素が読み取れる。

最近購入した、第140回直木賞受賞作「利休にたずねよ」(山本兼一・著)でもその人となりが、小説という形態を通して読み取れる。


千利休が美に殉教した当日から、時系列で遡っていく形式を取ったこの小説では、語り手が古田織部であったり、豊臣秀吉であったりと、面白い仕掛けがしてある。実に軽妙で、スピード感のあるこの作品を読んでいると、著者自身も利休のCreativityに如何に魅せられているかが、私の中に自然と入り込んできた。久々の、私の中でのスマッシュ・ヒットである。

私はこの日本初のビジョナリーについて、多様なテクストが残されている現在、一番信頼しているテクストに最後には戻ってしまう。
それは、青山二郎が数少ない著作の中で、利休の思想について考察した「眼の哲学/利休伝ノート」である。


そこには、利休の思想が的確に書かれている。青山は述べる「利休の前後に思想を持った茶人はなかった」と。「利休の美」は、外界に対する形式の反応から創造される。しかし、利休の美の周縁には、二重・三重の外界や社会の反応が呪縛となり、最終的には利休の死として結実する。このジレンマによって、利休の思想が結局は矮小化してしまっているのではないだろうか。

ビジョナリーとして社会に影響を与え続けることは、孤独な作業であり、自身の多様な事象に対する説明責任を伴う洞察力を磨いていくことに繋がる。利休はそのクリエイティブの本質を、自身の美に対する殉教で完結させてしまったが、それほど美を極める、審美眼を確立させるということは困難なことなのだということを、現在に生きる我々に示してくれているかのようだ。

Thursday, January 29, 2009

プリンシプルと美意識の交錯

現在神戸・大丸で開催中の「白洲次郎白洲正子展」に足を運んだ。


何より私を驚かせたのは、白洲夫妻が暮らし、思索し、対談した場所:「武相荘」(ぶあいそう・武蔵と相模の境界にあることに因んでいるとか、白洲次郎の性分である無愛想から名付けたとも言われる)の一室を、インテリアなどもそのままに再現したセクションを中心に展示会が構成されていた所である。

展示会カタログ


そのリアルな生活空間の周りには、白洲次郎が関わった憲法改正草案要綱や、GHQとの遣り取りをしたレター類などの歴史的ドキュメント。スタイリッシュな白洲次郎が愛用したHERMESのクロコダイル製アタッシュケース、Louis Vuittonのトランク、イッセイ・ミヤケに特注した裏地がミンクのコート、ヘンリー・プールでオーダーしたスーツやジャケット類などが整然と展示されていた。ただ、日本で初めてジーンズを穿いたと言われる白洲次郎愛用のジーンズがなかったのは少し残念ではあるが。
また、リアルな美を愛した白洲正子が、自身の目利き力で収集した桃山時代(日本史上最も美術や文化が爛熟した時代)を中心とした陶磁器や書画。と思うと、北大路魯山人の焼き物があったり、鎌倉時代の仏像があったりと、実にユニークで、多彩な美の饗宴!!

吉田茂の懐刀として日本の戦後復興を助けた前期・白洲次郎、東北電力会長や様々な企業の取締役として高度経済成長の原動力となった中期・白洲次郎、そしてカントリー・ジェントルマンとして田舎から中央政財界に睨みを効かせた後期・白洲次郎。その全てがコンパクトに表現された展示会であった。
小林秀雄や青山二郎など一級の知識・文化人達から薫陶を受け、「形」を見る眼=目利き力を鍛錬された白洲正子の広範な美意識が垣間見られた展示会であった。

私はそれら展示物を鑑賞しながら、危機に瀕している現在の世界や日本の状況を、動乱の時代を疾走した白洲夫妻が生きていたらどのように評したのかを聞いてみたくなった。たぶん白洲次郎なら、この貪欲な高度資本主義をプリンシプルのないイズムであると言い放ったかもしれないが。。。。

白洲次郎関連展示物



白洲正子関連展示物

Friday, January 02, 2009

とあるギャラリーからの贈り物

毎年お正月になると、とあるギャラリーから送られてくる干支の色紙。


そして、いつものように色紙に描かれた干支の絵に言葉が添えられている。
「悠然と歩む『牛』の足には力が漲り、角を具えた表情に情熱を秘め、黙々と汗して働く姿に信頼感が溢れる。今も豊穣のシンボルであり続ける『丑』は、人間の暮らしを支えている」
この色紙に添えられた言葉の通り、激しい変化を予感させる新たな年に、私も大いなる豊穣を目指して歩んでいこう。

Monday, December 29, 2008

2008 Art & Me (vol.2)

昨日は、記憶装置としての美術館やギャラリーで、この2008年に訪れたアート展について述べた。

今日はこの1年、私が身近で体感したアート、私にフィットしたリアル・アートについて書いてみたい。

まず紹介したいのは、私の友人であり、現在Belgiumで創作活動を継続している現代Artist・Daisaku NAGAIの作品である。彼の作品は、ある時は詩的であり、哲学的であり、文学的でもある。私にとっては、まさにリアル・アートである。今年彼が久しぶりに帰国し、その創作物に私にとってのリアル・クローズ・ブティックである「CINQUE CLASSICO」のリニューアル・パーティーで出会った。そのクリエイティブ力は以前にも増して、軽やかさと重厚さが混在していた。

その中で購入したのが、この作品。


今年5月にその友人がベルギーで個展を開催した際、その個展に関してベルギーのフランス語圏有力新聞の「Le Soir」に掲載された。この記事を構成するにあたってインタビューも行われたようだが、そのインタビュアーはかの巨匠:ロイ・リキテンスタインにもインタビューした事のある人だったようだ。そのインタビュアーは、彼の作品を見てリキテンスタインを想起したようである。



Daisaku NAGAIの作品以外で、リアル・アートとして購入したり、貰ったりしたモノを一部紹介してみよう。

まずは、よくステーショナリーとかを入れているCube Poach(OriginalFake×Porter)。これは、私が最近注目しているArtist・KAWSのデザインで、彼のアイコン“×”や、アートワーク“TEETH”によるフリップトップ、ファスナーは実にユニーク。彼のアートワークには2009年も大注目。


お次は、本日も着用していた藤原ヒロシ村上隆のコラボによるアートT-Shirts。今年東京で、藤原ヒロシがキュレーターを務めた「Hi&Lo」展の時に作成されたモノ。アートを着るってのも良いかも。


最後に、奈良美智がクリエイトしたちょっと眠そうな犬のブックシェルフ。いつも、私が新たな本を購入してくるのを自宅で待ちわびている。


まあ、こんな感じで2009年もアートというモノを身近で体感し、どこにでも偏在する存在としていきたい。

Sunday, December 28, 2008

2008 Art & Me (vol.1)

リーマン・ブラザーズが破綻した翌日に、ダミアン・ハーストの新作オークションでの落札価格が約211億円に達したことに驚かされた反面、世界金融危機に影響を受ける形でアートバブルも弾けてしまった感も否めない。

このように、アート界でも動きが激しかった1年の中で、私もアート展へ足を運んだり、実際に作品を購入したりもした。つまり、私が語るアートの中には、美術館やギャラリーなどの特有の敷居の高さで展示されるモノと、私の等身大にフィットするリアル・アートが存在すると言うこと。

2008年の非リアル・アートの世界=美術館での作品鑑賞した中で、私が印象に残っているモノを記述してみたい。

フランスの哲学者・ジル・ドゥルーズは、自身の映画論の中で「静物とは時間である」と述べ、現代映画は「運動感覚的な状況」から「光学的音声学的な状況」へと転換したと、時間イメージの重要性を強調する。
じゃあ、絵画=アートの世界はどうだろう?近年現代Artist達が、絵画を意識した映像作品を旺盛に創造し始めている。動くモノが動かないでいるという状況は、絵画ではなかなか表現し難いもので、純粋に映像でしか他者に伝えられない。
時間イメージが静と動によって表現される、つまり映像と絵画が融合し始めているのだ。


私が今年訪れた中で最も印象深い「STILL MOTION: 液晶絵画」展(於・国立国際美術館<大阪>)は、上記の事象を再認識させてくれるもになった。


千住博ジュリアン・オピーブライアン・イーノ森村泰昌など、私が興味を持つArtist達が、微妙に動く絵画を液晶画面上で表現した作品群を創造していた。美術館の限定された空間に、多様な時間軸を内包するクールな映像が作る絵画を目の当たりにし、私の感性を刺激した。

次の非リアル・アートは、今年兵庫県立美術館で開催された「冒険王・横尾忠則」展。



これだけ纏まった形で、横尾忠則の描いたモノに接するのは初めてだった。特に印象深かったのは、横尾の「赤色」で表現された作品群だった。彼の最も旺盛にクリエイティブ力を発揮していた時代の作品群に出会えたことに感謝したい。

明日は、私が2008年に購入して、着用&使用したり、自宅で飾ったりしているリアル・アートを論じてみたい。

Monday, December 15, 2008

2008 Word & 2009 Plan

私が3日前のblogで、今年の漢字は「崩」じゃないかと予想したが、これは見事に外れて、「変」であった。
政治・経済・経営・社会など、社会科学的視線では妙にリアリスティックな考え方をする私としては「崩」の方が妥当だと感じるのだが。皆さんならどんな漢字を思い描きますか?


いずれにしても、ここ数年「命」(自殺者が増加)や「偽」(食品偽装増加)などの漢字が選ばれていたことを考えれば、今年は少し私の感覚としては明日への希望を込めた「変」なのかと捉えた。2008年で一番インパクトのあったフレーズが、バラク・オバマ次期アメリカ大統領の"Change"。そして、彼が次期大統領に選ばれる前から明確になった世界的金融大変動。その辺りから見えてくる言葉は、「変」だけだったのかもしれない。2009年はもう少し、PositiveでAggressiveな漢字が選択されることを期待。

さて、来年の予定をここで少し。

来年の初旬には、私の観たい展覧会が結構関西で目白押し。自身の備忘録として、ここに記しておこう。


まずは、1月下旬から神戸で開催される「白洲次郎白洲正子展」(大丸ミュージアムKOBE於)。第二次世界大戦前後を軽やかに疾走し、戦後は「美」と「義」に生きたこの華やかな夫婦のスタイルを、大変動の今こそその息吹に触れてみたい。

お次は、関西出身の世界的建築家・安藤忠雄の建築展が来年2月に開催(TOTOテクニカルセンター大阪於)。安藤忠雄の30代の代表作「住吉の長屋」&「光の教会」の縮尺1/10サイズのコンクリート模型を展示するほか、現在進行中の「プンタ・デラ・ドガーナ再生計画」&「モンテレイ大学 RGSセンター」などの海外最新作までを網羅するようだ。安藤忠雄という建築アイコンのクリエイティブ思考に触れる絶好のチャンス。

次の2つはまだ開催日程が未定なんだけど、ぜひ足を運びたい展覧会。
1つは、「20世紀のはじまり ピカソクレーの生きた時代」(兵庫県立美術館於)。もう1つは、私がその作品力に常々リスペクトしている杉本博司「歴史の歴史」展(大阪国立国際美術館於)。


この杉本博司の作品に初めてNYで触れてからのファンなのだが、彼の作品の深みは言うまでもなく、彼の記述するテクストにも私は大変共感を覚える。

さぁ!!2009年も面白いコトやモノを見尽くそう。

Saturday, December 13, 2008

“ ”が切り取るクリエイティブ

“ ”(クォテーションマーク)は、文献から引用したり、会話文を入れたりするのに使われる。
このQuotationそのものをタイトルとしたクリエイティブ系ジャーナル誌が登場。


他者と会話してたり、文章を読んでいると、その瞬間の言葉や、文章や、気持ちを切り取って、Quotationマークに取り込んでいくって感覚が小気味よい。
扱ってるカテゴリーは、クリエイティブに関するアート、フォト、アニメ、ファッション、映画などのキーワードをトータルに評論され、編集された雑誌って少ない感じがする。
読み手側に、クリエイティブ視点で多様な事象を明快に分析し、テキスト化して伝えていくのは困難な作業だろうけど、やはり言葉やテキストでクリエイティブを語っていくのも大事だから。
多くの雑誌が休刊に追い込まれているけど、来年もこんなスタイルのメディアが少しでも誕生することを望んでいる。
この雑誌、初版は完売とか。

Wednesday, December 03, 2008

言葉とアート:百花繚乱展

久々に、新鮮な気持ちで現代アートと相対した。
現在兵庫県立美術館で開催されている、「百花繚乱展 2008」という127人の現代アートや陶芸家達の集合展へ足を運んでみた。



私が今まで足を運んだ展覧会とは一味違う、新進気鋭のArtist達の競演を目の当たりにし、各作品の荒削りではあるが必死の表現手段が、私の心に突き刺さってきた。実際、自宅において鑑賞してみたい作品が何点かあった。これから世界へ進出していくんだという情熱が、伝わってきた作品が多かったことに心強くもあった。


その中でも、各作品に付けられた名称の面白さに興味を持った。様相、文明の終焉、夢の遺伝子、重力都市など。一見したら、その作品との繋がりがないようであっても、その作品を創造した者が付けた名称には何らかの意志が働いたのであろうと想像しながら鑑賞するのも、また一興である。Creativeな事象と、Text Design(デザインを書く)の相関関係を考えていたので、少しは参考になったかな。

今回展示物を鑑賞して、頭に浮かんだフレーズで締めてみよう。

「われわれは決して説明を通じて芸術を経験しない。
解釈と分析はよくて知的な準備として役立つにすぎない。
けれども、それらが芸術作品と直接に触れ合うならば、
われわれを鼓舞するであろう。」

バウハウスの基礎造形教育により抽象芸術を発展させた、Moholy-Nagy, Lの言葉。

Wednesday, November 19, 2008

日本的「美」を考えてみる

先日書店でいつものように書籍を物色していると、1つの面白い書籍に出会った。
それは、平凡社から出ている「日本の美100」。
梅原猛、磯崎新、横尾忠則達選者25人が、1人4つずつ日本の美について挙げて考察する趣向である。


この書のカバーには、これでもかと言うぐらいの満開の桜の写真で飾られている。これも、もちろん「日本の美」の1つではあろう。

「日本の美」という大文字の「美」をこの本は示そうと試みてはいるが、やはりそこに掲載されている「美」は多様なモノ、事象、思想の断片を寄せ集めたに過ぎないことは仕方がないことなのかもしれない。「日本の美」と限定はしてみても、個々人が思い浮かべる「美」は人それぞれ違うモノになるのは当然である。

では、私自信にとっての「日本の美」とはなんだろうかと、考えてみた。
昨年、伊藤若冲の代表作「動植綵絵」が、「釈迦三尊像」と共に展示されるという秀逸な展覧会へ足を運んだ。会場となったのは、京都・相国寺。120年ぶりの代表作同士の遭遇に立ち会うことができ、漠然とではあるが、「ああっ、これは本当に美しい」と体感した。特に、若冲の描いた「動植綵絵」は、何とも表現できないタッチ、書き込み、繊細さ、線の躍動感に満ちていた。私の主観ではあるが、今まで鑑賞してきたどの絵画よりも私は魅了されたのだ。




しかし、これが私にとっての「日本の美か?」と問われると、ちょっと待てよと思ってしまう。青山二郎がその著作「眼の哲学 利休伝ノート」の中で述べた千利休の飽くなき美を追究する思想にも共感してしまう。北大路魯山人が追求した書、陶芸、美食を統合した姿勢も「日本の美」の1つではないのか。


こう考えてくると、やはり私はあのフレーズを想い出してしまう。
そのフレーズとは、批評という体系を日本で確立させた小林秀雄の「当麻」(「モオツァルト・無常という事」所収)という短いテキストの中にある。能の体系者・世阿弥が美というものをどういう風に考えたかを表現したフレーズ、「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」。


小林はこのフレーズで「美」というものは、人それぞれが思い描く美しい建築物、自然、絵画、などがそこにあるだけだと。だから、「日本の美」のように大上段に構えて、一言で表現したり、選択することはできないのだと。

皆さんにとって、「日本の美」と何ですか?

Monday, September 22, 2008

CINQUE CLASSICO:Art、Sound、&Fashionの饗宴(1)

ちょうど1週間前、神戸のダウンタウンで1つの宴が催された。
私にこのblogを書くキッカケを与えてくれた藤原オーナーが、神戸に創造したクラシコイタリア系ブティック「CINQUE CLASSICO」のリニューアルを祝う宴である。


この夜は、ファッション・ビジネスもその一角を占めるグローバル市場にとって、大変衝撃的な事件:リーマン・ショック(リーマン・ブラザーズ破綻による世界経済の動揺)という事象が、神戸という日本の1都市で開催されたRenewal Partyという華やかな舞台裏で起こっていたことも明記しておきたい。

このPartyに参加して考えたことがある。それは、ファッションの行方についてである。現在、グローバル経済の中でアパレル産業はLV Groupのようにどんどんコングロマリット化していき、デザイン、素材などのクリエイティブ要素が画一化していくのではないかという感覚に襲われることがある。そのような状況の中で、ファッションについて、語るべきことは残されているのか?ファッションなどが創造するトレンドは、今なお人々の深層心理を表象しているのか?また、我々がファッションに求める「装い」は、独自のアイデンティティを表現しうるのか?或いは、ファッションが理想の自分に近づくための手段として、今後も機能しうるのか?このような疑問符が頭を巡っていた。
CINQUE CLASSICOが提案するファッション形態は、これら私の疑問に対して、トレンド=High Brandが全てではなく、特にメンズ・ファッションに於いては、クラシコイタリアという伝統と革新の融合物の中に、新しい時代の扉を開くクリエイティブな発想があることを示してくれている。
今回のRenewal Partyを通して、CINQUE CLASSICOがそのことを我々に対して、高らかに宣言しているかのように感じた。

以下で、当日の模様を写真で振り返ってみよう。
写真は、Partyを待ちわびる空間から、PartyにおいてJammingしたJazz演奏という、静から動へのプロセス順に並べてみた。





















ここまで、当日の風景を写真で振り返ってみました。
Party当日、私がどんなコーディネートで臨んだかを、少しだけ触れておきます。

今回のコーディネートは、今季のトレンド・カラー「紫」を主体に組み立ててみた。
敢えて、クラシコイタリア・スタイルではなく、アンティークとも言える15年前に購入したGIANNI VERSACEのグレンチェック(実はその中に淡いパープルカラーが含まれている)Double-breastedジャケットに、これまた15年前に購入したパープルが主体のドレスシャツを着用。胸元には、CINQUE CLASSICOで購入した、Franco Jacassiのラベルピン(パープル・ストーン)を付け、チーフも淡い紫色をチョイス。更にパンツは、Levi's Fenomのブラックサテン、シューズはVISVIMのFBT。まさに、クラシコイタリアを脱構築したスタイルで臨んだわけである。

次回blogでは、今回触れていないArtとFashionの融合部分について書いてみたい。
ヒントは、この写真。

Tuesday, November 06, 2007

日本初!!

11月最初の更新は、いつもとは少し趣向を変えて、軽めの話題で行きます。
とはいっても、今年私の思考の中心となっている"Creative"が今回の内容にも少しは反映されているかな。

最近WEB情報の中で興味を持った話題、"Auction"について紹介してみたい。
皆さんは、オークションと聞いて何を思い浮かべますか?例えば、ヤフー・オークションのようなInternetに特化されたオークション、それとも西欧社会で長い歴史と経験を積み重ねている"Sotheby's"や"Christie's"などの本格的オークションだろうか。
私は随分前から、Sotheby'sなどの本格的オークションハウスのカタログを眺めるのが好きだった。世界の目利きが集まり、競売にかける一級の商品をカタログ越しではあるが覗いてみると、その商品の歴史性や背景などが分かり、ワクワクしたものだ。

そんな本格的オークションハウスが日本にも登場する。全世界のモダンデザインを中心とした、日本初の本格的オークションハウスの名前は、"Connect."。



ここでは、CHARLES & RAY EAMES、GEORGE NELSON & ASSOCIATES、ARNE JACOBSENなどなど、クリエイティブを活性化させる創造物が続々出品される。
Preview Startが11月22日、Auction Startが11月26日午前10時~
ここから、新たな潮流が起こることを少し期待している。

Sunday, September 24, 2006

アートとビジネスの相関関係:「芸術起業論」

どんな世界にも戦略が必要だ。
それが、芸術=アートの世界であろうと、例外ではない。素晴らしい作品を世に残していくためには、アーティスト自身が自己の作品を商業ベースにのせていく緻密な戦略を練っていくことが重要なんじゃないかと、私は考える。
アートやデザインの業界はどうもこの利益を追求する姿に対して嫌悪感があるようで、他者を感動させる新たな作品・潮流を生み出していくキー・ドライバーは「金銭」と「時間」が基本的要素であることを忘れている。
加えて、どうもアートを語る批評家達は、作品の上辺ばかりを見て、作品の本質部分に光を当てようとしない。これでは、アートやデザインの世界は一般的にはならないし、いつまで経っても一部分の人々が楽しむものでしかない。

この様なことを考えていたとき、書店で手にした書籍が村上隆の「芸術起業論」(幻冬舎)であった。彼の作品は今では、サザビーズのオークションで1億円以上で取引されている。その余りの海外市場での人気に、同業者や批評家からは、金儲けばかり考えているエセ芸術家、オタク文化を再解釈しただけの物真似作品、などと辛辣な批判に晒されている。しかしこの様な批判は何も今の時代に始まったわけではなく、Andy Warholが初めてポップ・アートを世に出したときもそうではなかったか。またもっと時代を遡ると、天才芸術家・北大路魯山人(漫画・美味しんぼの海原雄山のモデル)も、料理・陶芸・書などを総合的にプロデュースする能力を妬まれていた。どんなに批判の対象になろうとも、私は彼ら3人のアーティストの行動・思考様式を大変評価している。





「芸術起業論」の中で村上は、世界的に通用するアーティストになるためには、「西洋美術史でのコンテクストを作成する技術」=「世界基準の文脈を理解する技術」を身に付けるべきであることを繰り返し述べている。つまり、芸術作品は社会と接触しなければ、作品としての価値は見出されず、単なる自己満足の代物でしかない。だから、アートの世界にも、アーティスト自身がビジネスセンス、マネジメントセンスを貪欲に身に付ける必要があるということを訴えかけている。私のようにアメリカで教育を受け、市場原理主義が普通と考えている人間からは、至極当たり前のことを述べていると感じるのだが。

一人のアーティストがこの様な書籍を書き上げたことも驚きだが、それよりも未だにアートの世界が閉鎖されたコミュニティの中で、自己満足な作品しか生産していない現実に傲然となる。忘れてはならないのは、どんな商品・サービスでも、顧客がいて、その顧客とのコミュニケーションが成立してこそ、認知されるのである。それがいかに芸術作品であったとしても、何ら変わることはないと思うのは私だけであろうか。

アート世界の閉塞感を打破するために、次代のアート空間を担う一人になるであろうだい氏にこの一冊を手にとって貰いたい。