Wednesday, November 19, 2008

日本的「美」を考えてみる

先日書店でいつものように書籍を物色していると、1つの面白い書籍に出会った。
それは、平凡社から出ている「日本の美100」。
梅原猛、磯崎新、横尾忠則達選者25人が、1人4つずつ日本の美について挙げて考察する趣向である。


この書のカバーには、これでもかと言うぐらいの満開の桜の写真で飾られている。これも、もちろん「日本の美」の1つではあろう。

「日本の美」という大文字の「美」をこの本は示そうと試みてはいるが、やはりそこに掲載されている「美」は多様なモノ、事象、思想の断片を寄せ集めたに過ぎないことは仕方がないことなのかもしれない。「日本の美」と限定はしてみても、個々人が思い浮かべる「美」は人それぞれ違うモノになるのは当然である。

では、私自信にとっての「日本の美」とはなんだろうかと、考えてみた。
昨年、伊藤若冲の代表作「動植綵絵」が、「釈迦三尊像」と共に展示されるという秀逸な展覧会へ足を運んだ。会場となったのは、京都・相国寺。120年ぶりの代表作同士の遭遇に立ち会うことができ、漠然とではあるが、「ああっ、これは本当に美しい」と体感した。特に、若冲の描いた「動植綵絵」は、何とも表現できないタッチ、書き込み、繊細さ、線の躍動感に満ちていた。私の主観ではあるが、今まで鑑賞してきたどの絵画よりも私は魅了されたのだ。




しかし、これが私にとっての「日本の美か?」と問われると、ちょっと待てよと思ってしまう。青山二郎がその著作「眼の哲学 利休伝ノート」の中で述べた千利休の飽くなき美を追究する思想にも共感してしまう。北大路魯山人が追求した書、陶芸、美食を統合した姿勢も「日本の美」の1つではないのか。


こう考えてくると、やはり私はあのフレーズを想い出してしまう。
そのフレーズとは、批評という体系を日本で確立させた小林秀雄の「当麻」(「モオツァルト・無常という事」所収)という短いテキストの中にある。能の体系者・世阿弥が美というものをどういう風に考えたかを表現したフレーズ、「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」。


小林はこのフレーズで「美」というものは、人それぞれが思い描く美しい建築物、自然、絵画、などがそこにあるだけだと。だから、「日本の美」のように大上段に構えて、一言で表現したり、選択することはできないのだと。

皆さんにとって、「日本の美」と何ですか?

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