Wednesday, April 29, 2009

顔の不可能性に出会った

以前、ベルギー在住の現代Artistの友人から、人間の手を描く難しさということを聞いたことがある。

先日足を運んだ、「20世紀のはじまり ピカソとクレーの生きた時代展」(於兵庫県立美術館)では、手ではなく、顔を描くことの多様性、困難さに出会った感じがした。
画家でもあり、彫刻家でもあったアルベルト・ジャコメッテイは、「顔を描くのは実にむずかしい。風景や静物ならまだ何とかなる。しかし顔を描くことはほとんど不可能に思われる、それに成功した人は1人としていない」と言い切っている。

私はプロフェッショナルなアーテイストの視線というものが分からないが、考えてみると、顔を描こうと思えば、我々は例えば建物の表象を上手く枠の中に収めるというような単なる構図的配慮ではなく、その周囲の空間の変容そのものを描かなければならないということは理解できる。しかし、言葉にしてしまえば簡単に思えても、実際に他者に影響を与えるような、クリエイティブに顔を描くとなると、私にとっては不可能のように思えてしまう。


そして私は、今回の展覧会でそんな顔の不可能性に出会った。
今回のExhibitionは、「表現主義的傾向の展開」「キュビズム的傾向の展開」「シュルレアリスム的傾向の展開」「カディンスキーとクレーの展開」と4つの断章に分けられ、パブロ・ピカソパウル・クレー達が若く才気溢れる創作意欲を持っていた1900年代初頭から、脂が乗りある一定のポジションを確立していた1940年前後までの作品群が、私に圧倒的な存在感を見せつけた。

その中でも、「キュビズム的傾向の展開」の章で展示されていたピカソの「鏡の前の女」に惹き付けられた。
そこに描かれた女性の顔は、口の位置が正面と側面を繋ぐ蝶番として機能していたが、他の作品では口が正面像にあたる顔の隅に描き込まれたりしており、その対照的な作風で観る者の視線に動的風景を見せつける。
巨匠・ピカソでさえも、顔に対しては多様なアクセスを試み、顔を描くということへの飽くなき欲望が伝わってきた。


皆さんも、顔の不可能性、巨匠達の顔への欲望を、覗いてみてはいかがだろう。

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