Wednesday, April 22, 2009

1つの雑誌の終焉に思うこと

今日私が手にした1つの雑誌は、30年間という歴史に幕を閉じた。
その雑誌の名前は、「広告批評」。

広告批評最終号の巻頭言では、「広告の世界は、いま大きく変わろうとしています。が、広告がなくなることは決してありません。広告は、時代の映し絵というだけでじゃない、いい面も悪い面も含めて、人間そのものの映し絵でもあるからです。・・・・」このようなテクストで始めている。

最終号の表紙デザインは、実にミニマルにホワイト一色で、表紙のど真ん中に「30年間ありがとうございました。」と切り絵風の広告批評というタイトルだけという潔さである。まさに、立つ鳥跡を濁さずという感じだろうか。


私はこの雑誌の特集が結構好きで、書店で面白い特集が目に付くと購入し、楽しみながら触発されていた。
私自身この雑誌に思い入れがあるのは、ビジネス的にも、ブランド、クリエイティブ、デザイン、広告などのキーワードで括られる世界に属してきたことが関係しているかもしれない。

この雑誌が消滅することに意味はあるのだろうか?
今の時代、広告やクリエイティブというビジネス領域は、多様なメディアの元で表現される。TVCM、ラジオ、インターネット、紙媒体など、その表現領域は蜘蛛の巣(=Web)のようにグローバルに展開する。
広告批評社主の天野祐吉は、広告批評の30年というテクストの中で、「世間話のように、広告を語り合える雑誌を作りたいと思った。その視点は、専門家の目ではなく野次馬の目で、書き言葉より話し言葉で」と述べている。
広告などのコミュニケーション領域は、そのような柔らかい目線では捉えきれないくらい、多様に広がってしまったのではないだろうか。blog、SNS、ホームページなどのバーチャル・コミュニティの発展によって、個人が誰でも発信でき、批評できる環境が創造されてしまった。書評1つ取ってみても、本屋の店員がポップを立てる、またAmazonで読者がコメントを書くという感じになる。つまり批評という領域では、大文字の批評家や評論誌の存在意義が脆弱になりつつある。

このような大きな潮流の中で私が考えるのは、それでも広告批評のような雑誌や、マクロな意味での批評は必要なんじゃないかと思う。批評=Critiqueが脆弱な社会というモノは、共有する物語や言葉が衰弱している証拠だろうし、そんな世の中に私は面白みを感じない。それに、雑誌の「雑」という部分、要するに多彩なオピニオンが交錯し、批判し、喧嘩できる場がなくなることにこそ、私は危惧を覚える。

今回1つの雑誌の終焉に、私はこんなことを考えてしまった。

3 comments:

ショコラパウダー said...

広告批評、廃刊になってしまうんですね~残念。。。
私信で申し訳ないのですが、私このたびmixiを退会しまして、そのご挨拶と思って来てみたら広告批評も終わり・・の記事。

終わりは終わりでなく、新しい始まりであると、祈りつつ・・・

広告(=表現としての)の今後に期待したいと思います。

b.yanagida said...

ボクも早速手にしました!
“終わる”のメッセージ整理はまだ出来てません。

ただ、手に取った瞬間。
このボリュームで、純白、しかも質感のある紙。
これは汚れる!間違いなく。

そこにも感じられる意図を、ボクなりに考えようと思ってます。

いわゆる「広告」は終わりつつありますが、「いわゆる広告じゃない広告」がはじまってますねー

YF Velocity said...

>ショコラパウダーさん
mixi辞められるんですね(^_^;
私も最近mixiにはあんましアクセスしてませんねぇ。ちょい飽きてきた感はあります。
まっ、blogを通じてこれからもコミュニケーションを続けていきましょう(^_-)-☆
終わりは、確かに新たな始まりに繋がるからね。

>binくん
おひさ~っす。
これまでのような大文字の広告=マスメディアを通じたコミュニケーションは終焉を迎えつつありますが、多様な小さなコミュニケーションは根強く残っています。その小さなコミュニケーションの断片を如何に統合して、次世代のコミュニケーションを創造するかが問われてるんやろね。