Tuesday, February 17, 2009

来て、見て、語ることの選択

私はこのブログを始めて随分時間が経つが、小説家・村上春樹について語ったことがあまりない。
私は彼がまだ文芸誌・群像に処女作「風の歌を聴け」を連載していた当初から、彼の熱き読者であった。
当時私は中学2年生。まだ、文学の何たるかも理解していない、青臭いガキであったにもかかわらず、知り合いのおじさんが持ってきた文芸誌を手に取り、ちょっと背伸びしたくて1人の作家の文章に目を留めた。
それが「風の歌を聴け」で、ちょっとスノビッシュで、都会的なテクストの私は虜になってしまった。
その衝撃的な出会いから今年で30年、私は今も尚作家・村上春樹のテクストから逃れることができないでいる。

私に影響を与え続けるその作家が、「エルサレム賞」を受賞した。この賞は、イスラエル最高の文学賞で、「社会における個人の自由」を巡る優れた執筆活動に対して与えられ、これまでに英国の哲学者でノーベル文学賞受賞者のバートランド・ラッセル、仏人著述家シモーヌ・ド・ボーヴォワール、アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘス、チェコの作家ミラン・クンデラなどが受賞者として名を連ねる。

村上春樹は昨日エルサレム賞受賞スピーチを昨日行い、その内容が世界を駆け巡った。その演説は実に素晴らしく、私の心に響く内容であった。どこかの財務大臣のように醜態を晒さず、明快で、クリティックに満ちたものであった。
当初、暴力によって反対者を抑圧する国が主催者の授賞式に村上氏が出席することへの反対意見も多くあったが、これに対しても「作家は自分の目で見たことしか信じない。私は非関与やだんまりを決め込むより、ここに来て、見て、語ることを選んだ」という内容で見事に看破した。

秀逸だったのは、イスラエルのガザ攻撃などに対する批判を、「壁」と「卵」というキーワードによって、小説家らしく比喩的に、そしてシニカルに述べた部分であろう。
曰く、「私が小説を書くとき常に心に留めているのは、高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵のことだ。どちらが正しいか歴史が決めるにしても、わたしは常に卵の側に立つ。壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか」。
曰く、「壁はあまりに高く、強大に見えて私達は希望を失いがちだ。しかし、私達一人ひとりは、システムにはない、生きた精神を持っている。システムが私達を利用し、増殖するのを許してはならない。システムが私達を作ったのでなく、私達がシステムを作った主人なのだ」。

村上春樹 「エルサレム賞」受賞スピーチ


「壁」は戦争などを生み出す社会システム、「卵」をその壁にぶつかって壊れていく人間の隠喩として、村上氏が用いているのは明らかである。村上氏は、どんなに「壁」が正しくて、どんなに「卵」が間違っていても、村上春樹という小説家は「卵」の側に立つと宣言したことに、私は敬意を表したいと思うのだ。
この「壁」が、村上作品の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の「世界の終わり」パートに表現される、周りをぐるりと高い壁で囲まれたエリア=ガザ地区が妙にシンクロしていることもここで述べておきたい。


いずれにしても、村上春樹的隠喩としてのスピーチは、何の変哲もない普遍的な言葉で語られてはいるが、今の世界の状況を見事に言い当てている。大転換の時代にあって、今年はオバマ米国大統領の就任スピーチと今回の村上スピーチという秀逸な2つのスピーチを体感した。我々はこれらスピーチから、何を考え、何を実行するかを、1人ひとりが考えていかねばならない。

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