先日も、漫画家を目指しながら、有名な漫画家先生のチーフアシスタントをやっている人と食事をした。その人と対話していて、「この人は、おそらく私の世界認識とは全く別物の認識の仕方をしているに違いない」ということを私は会話の端々から感じ取った。
今まで出会ってきたクリエイティブを生業にしている人達もまた、街中にに溢れるグラフィックやデザインの中で、明らかに「INなもの」と「OUTなもの」とを見分けているのだろう。いや、どんな平凡な風景だろうと、そこにある色彩や明暗、形状、などを、私とは全く違う見方で捉えていて、何かをそこから感じているんだろう、と思った。例えばだが、トマトを見たときに、私としては言葉としての「トマト」以外に感じることはないのだが、クリエイティブ領域の人々は「圧倒的な赤褐色」や「生命感あふれる質感」をビビッドに感じるのではないだろうか。
例えば、今年1月2日にNHKで放送された「プロフェッショナル 仕事の流儀 イチロー・スペシャル」を見て、イチロー自身の口から発せられる言葉を聞いていると、彼にしか見えていない空間があるように感じた。
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また随分前に、吉本隆明「世界認識の方法」を読んでいて感じたのも、人は他者によって作られた自分に責任を負わなければならない→他者の視点→世界視線を持って、臨むことこそがクリエイティブな領域に踏み込んでいくことなのだろうと、ぼんやりとではあるが認識したものだ。
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このように考えて来ると、世界を認識する方法・仕方は、実は私自身が思っているよりもバリエーション豊かなのかもしれない。
例えば、
● クルト・ゲーデルのように数字で世界を認識する数学者や物理学者
● ジョン・ケージのように音楽で世界を認識する作曲家や声楽家
● 北大路魯山人のように匂いや味で世界を認識する料理人やソムリエ
● イチローのように運動で世界を認識するアスリート
● ジョージ・ソロスのようにお金で世界を認識する金融家
のような感じで。
どんな領域であっても最先端トップランナーとして走っている人間は、よりそれを先鋭的に感じているのではないだろうか?
私自身は、ファッション、アート、音楽、映画、書籍などに対してアンテナをいつも高く上げて、少しでも自分と違ったフィールドの感度を活性化させようと努力はしているんですがね。しかし、世界をバリエーション豊かな認識力で捉えている人たちにとってみれば、独自の世界認識の方法こそが生きる意味であり、世界そのものである、というようなこともあるのだろう。だから、なかなか私自身その壁を乗り越えるというのは容易なことではないと考えている。でも、その障壁が高ければ高いほど、チャレンジのし甲斐はあるんだけどね。
いずれにしても、この世界には本当に多種多様なキャリアがあり、それぞれのキャリアに特有の「認識の作法」というものがある。今後もそういった人々とのコミュニケーションを重ねていくことで、世界を豊かに認識し直すことになるのではないか、と期待している。