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Thursday, October 29, 2009

44歳の「今」と共時性

44歳になった。何の前触れもなく、その年齢は突然やって来た。
42歳で父を亡くし、姪っ子が誕生し、そのまま43歳へと雪崩れ込んだ。
43歳の1年間で、私は今まで以上にビジネス&プライベートで多様な人々と対話をし、美しいモノを鑑賞するために色んな場所に足を運び、多分野の書物を読み、新しいテクノロジーに身を置き、自分好みのモノを蒐集した。
新たな試みとして、このblogではブルトンの「ナジャ」に触発され100のモノに対するストーリーを連載し始め、Twitterで日々思考することを呟き始めている。

やはりこの1年での劇的変化は、美しいモノを求める気持の高まりではないだろうか。
何故こんなにも美しいモノを自分の中で渇望しているのか?それは、Fashion、Art、批評、小説、詩、陶芸、書、音楽、映画、食などの私を巡る多様な事象に「美の発見の瞬間」が少なくなってきたからかもしれない。現在の高度に発達した欲望資本主義社会の中では、多様なサービス・モノが日々創造され、市場へ投下され、それらに飽きればまた次へと移動するということが繰り返されている。グローバルに平準化され、標準化されていく中で、面白く、美しいモノやコトが、どんどん減少しているように私は感じている。だから、私はこのblogで自身を巡るモノに関する100のストーリーを綴っていこうとしているのかもしれない。

私は44歳になる前の1年間、尊敬の眼差しでその言説を追い続けている2人の思考者の著作を読み返すことが多かった。その2人とは、柄谷行人小林秀雄である。
彼らが44歳だった時、どんな美しき事象に出会い、素晴らしいテクストを残したのかを再考してみたかった。
彼らの言説を振り返っている中で、44歳における共時性に少し驚きを覚えた。
彼らは、44歳前後で大事な人を亡くしていたのだ。小林秀雄の場合、最愛の母親を亡くし、その後アート、陶芸、音楽など美しきモノに戦いを挑むかのように、美しきモノをひたすら観ることと聴くことに没頭し、その後珠玉の作品を残すことになる。柄谷行人の場合は、アメリカでの同士でもあり、師でもある批評家・ポール・ド・マンの死に直面している。柄谷はド・マンの死の直後から、秀逸な批評的、構築的、思想的テクストを数多く著すことになる。

「モオツァルト・無常という事」「批評とポスト・モダン」

小林秀雄は44歳の時、「モオツァルト」を著した。小林は、モーツァルトが創造する美しき音楽に虚心に耳を傾け、その音楽の美に負けないほどの美しきテクストを著すことになる。
小林はその著作の中で、「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、『万葉』の歌人がその使用法をよく知っていた『かなし』という言葉の様にかなしい」と、味わい深い表現でモーツァルトその人と彼の音楽を描写する。そのテクストの美しさには、小林自身のArt、骨董、音楽をとことん観尽くし、聴き尽くし、自身の中で作品を咀嚼し切っていることが表れている。

柄谷行人は44歳の頃、日本の外部=アメリカのコロンビア大学やイェール大学に滞在し、自身の思考を磨いている。そして、外部の地で感じ取った知的エッセンスも含有し、閉塞していた日本の言説空間を目覚めさせるような書「批評とポスト・モダン」を著した。当時この書を大岡昇平は、小林秀雄のデビュー作「様々なる意匠」の再来を見出している。柄谷は、日本の外部で多様な領域:建築、文学、哲学、経済学、政治学、数学などを横断しながら思考し、その後も「探究Ⅰ・Ⅱ」「トランスクリティーク」など挑発的でもあり、意欲的でもあり、知的ワクワク感のあるテクストを多く著している。
柄谷は「批評とポスト・モダン」の中で、「望ましいのは、『感じる』ことと『考える』ことを分離してしまうのではなく、『考える』ことを『感じる』ことに基礎づけるか、あるいは『感じる』ことを言語化(思想化)することである」と述べる。彼は、考えることに美しさを感じているのだろう。

今は亡き小林秀雄は未だ日本の知性に大きな影響力を持ち、柄谷行人は今もなお知性の先端で活躍している。大事な人の死を巡る、この先人達と私との共時性は先述した。
彼らの著作を読み返して感じたのは、44歳の「今」の私との思考することの美しさ、美しいモノやコトに対峙する懐の深さの差である。
その差は、日本の外部で思考し、対話し、著しという差かもしれない。彼らは44歳の前後に、日本の外部に飛び出し、多様な知や美に巡り会っている。
私もそろそろ、日本の外部に再度身を置く時間が近付いているのかもしれない。
44歳のテーマとして、「外部」「観尽くす聴き尽くす」ことを念頭に置いて行動することになるだろう。
こんなことを考えた、Birthdayの1日でした。

最後に、小林秀雄のテクストで締めよう。私への自戒の念を込めて。
「美には、人を沈黙させる力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。絵や音楽が本当に解るという事は、こういう沈黙の力に堪える経験をよく味う事に他なりません」

Saturday, May 30, 2009

杉本博司「歴史の歴史」展:デュシャン的世界観

「アートとは技術のことである。眼には見ることのできない精神を物質化するための。
私のアートとは、私の精神の一部が眼に見えるような形で表象化されたものである。いわば私の意識のサンプルと言っても良い。(中略)
私の集めた遺物たちは、歴史が何を忘れ、何を書き止めたか、そんな歴史を教えてくれる。」

これは先日私が足を運んだ、杉本博司「歴史の歴史」展@大阪国立国際美術館で配布されたパンフレットからの抜粋である。


一歩展覧会場に足を踏み入れると、そこはもう世界的写真家であり、現代美術家であり、美術収集家である杉本博司ワールド満載の空間が広がっていた。

展覧会エントランスにて

歴史の全てがそこにあるかのような空間に足を踏み入れると、化石(杉本は化石を古代世界を写した「写真」と表現)に始まり、当麻寺古材と自作写真のコラボレーション「反重力構造」(天平と現代のコラボレーション)、放電場の大インスタレーション、そして仏教&神道美術のコレクションの数々。美しい表装。戦犯写真や月の石、宇宙食の食べ残し、収集された骨董、アポロ計画ゆかりの写真、戦争中のタイム・マガジンの表紙(ヒトラーがこれだけカバーになってた驚き)、解剖図(杉田玄白の解体新書など)。
さらに、杉本博司の作品の中で私が最も好きな「Seascapes」が弓なりの壁に等間隔で展示され、漆黒の闇の中に多様な海の写真が朧気に浮かび上がる様は圧巻であった。

圧倒的な歴史の事象が収められたカタログ

今回の展示会は、私に世界的写真家&美術家である杉本博司の所蔵する化石、古美術、近代遺産と、杉本作品との融合の美しさと、奥行きの深さに眩暈さえ憶えた。

今回のblogのサブタイトルに「デュシャン的世界観」と付加したかと言えば、展示品の中にマン・レイ撮影のマルセル・デュシャン写真を額装し、ガラスに3発おもちゃのピストルで弾丸を撃ち込んだと覚しき作品を目にしたからである。デュシャンといえば、美術館に便器を提示し、これは美術館に置かれた作品だと言い切った。それは、便器というモノを、日常に於いて持っている関心を括弧に入れて見よというシグナルである。
このように既成の物をそのまま、あるいは若干手を加えただけのモノをオブジェとして提示した手法が「Ready-Made(レディメイド)」。
今回の展示会で杉本博司が示唆したのは、歴史のレディメイドだったのかもしれない。アートの展示会というと、アーティストの作品のみが展示されるのが常であるが、今回杉本が試みたのは自分が所蔵する化石や雑誌などを自身の作品と共に、これもアートだと展示した。デュシャンがあらゆるものが芸術であると示したように、関心を括弧に入れて無関心としたように。
デュシャンのレディメイドも、杉本の「歴史の歴史」も、対象への「括弧入れ」をもって成立するが、実はその「括弧入れ」=無関心こそがカントの真・善・美といった領域が審美の根幹を成していることを、柄谷行人は「美学の効用」の中で議論している。

Saturday, December 27, 2008

極私的Cinemas Critique 2008

最近読んだ本の中で、最近の映画について面白いことが書かれていた。
その本は、私が映画や文学批評に関してのテクストに大変影響を受けている蓮實重彦の「映画論講義」。
蓮實氏のCritiqueには、切れ味、美しさ、シニカルさなど、私は彼のテクストに心地良さを感じる。


さて、この本で私が面白いと感じたのは、ヴィデオやDVDなどの反復装置が出現する前までは、その作品を二度と見れないという思いから、画面に対する集中力が映画を観る動体視力を鍛えてくれたという箇所。作品に一期一会の感覚を持って観るという行為が、その当時の映画批評を大変豊かなモノとしていたが、現在本当の意味での批評が減ってきていることを憂いているのだ。

こういう現在という背景も考慮しつつ、私が自身の動体視力で2008年に観た映画について、極、極、私的な批評を試みる。劇場、DVDやスカパーのPPVで観た数多くの作品の中で、私が印象深かったモノをピックアップしてみたい。


まずは、今年の私が観た映画の中でもっと印象深く、2008年ナンバーワンの作品かもしれない。
その作品とは、「潜水服は蝶の夢を見る」。
皆さんは題名を聞くと、何かファンタジーを予感させる作品と思うかもしれない。しかし、この作品は一人の有名ファッション誌・ELLEの名編集長が直面した病を起点とした困難、そのすさまじい孤独感・絶望感、壮絶なコミュニケーション手段の中から創造し結実した、一冊の自伝タイトルから由来している。
この作品には語るべきポイントが多くあるので、敢えてキーワード化してみたい。

究極の一人称映画/ロックトイン・シンドローム(閉じ込め症候群)/左目以外全身不随/20万回の瞬き/スーザン・ソンタグ的隠喩としての病い/柄谷行人的内省と遡行/絶望と自己憐愍からの脱却による三人称視点の出現/異形の体験/隠喩としての鋼の潜水服/MonologueとImaginationの間で/モノローグと映像が呼応しあう音楽的編集リズム/瞬きCommunicationによる文章の紡ぎ方/現代アーティストの絵画表現による映像美

いずれにしても、この作品は間違いなくジュリアン・シュナーベル自身の最高傑作と言えるんじゃないかな。まだ観てない人、一見の価値ありですよ。


ディンゼル・ワシントン、Undergroundの凄み、実に渋い演技です。ラッセル・クロー、これまた渋い演技です。監督は言わずと知れた、リドリー・スコット。彼自身の作品で私が印象に残ってるのは、やはり「ブレード・ランナー」と「ブラック・レイン」。彼は人間の奥底に眠る狂気を撮らせたらピカイチだと思ってます。しかし最近のリドリー・スコットの映画、それほど興味を持てずにきました。そこに「American Gangstar」。これはリドリー・スコットの傑作の1つになるんじゃないかな。ちょっと上映時間が長い気もしたが、そんなことも忘れさせてくれる疾走感が、この映画の醍醐味。あの"God Father"や"Scarface"以来、私の気持ちに躍動感を感じさせた作品でした。

ここまでが、今年の私の中での2作品。
ここから、上記の作品ほどではないが、私の動体視力に残像が残っているモノを挙げてみたい。


この「ノーカントリー」は、アメリカの抱える、社会、戦争、犯罪などが複雑に絡み合った課題を浮き彫りにする。
作品のメッセージは重いが、アメリカ生活経験者の私からすると、凄くリアルに感じる。


この「Factory Girl」は、アンディ・ウォーホルの「ファクトリー」と呼ばれるスタジオに実際にいたイーディ・セジウィックの物語。アンディ・ウォーホルのミューズでもあり、 1960年代のニューヨーク・アンダーグラウンド・カルチャーの伝説のミューズと呼ばれた彼女は28歳という若さでこの世を去った。その生き急いだ彼女の人生と、アンディ・ウォーホルが当時体現していたポップ・アートの源泉をこの作品を通して読み取れたのが印象深い。特に、アンディ・ウォーホル役のガイ・ピアースが素晴らしかった。


「フローズン・タイム」は美しい作品である。本作の監督はファッション・フォトに映画的センスを盛り込み、「VOGUE」、「Numero」、「i-D」など、多数のファッション誌で活躍する写真家ショーン・エリス。この作品では、写真という「一瞬」を切り取ることが仕事である彼が、時間に対する独特の感性を映画として表現した作品。私は、このように異業種の人が撮った映画昔から好き。


ウォン・カーウァイの初の英語作品「マイ・ブルーベリー・ナイツ」。NY→Las Vegas→NYという空間を舞台とした、実にきっちり撮られたロードムービー。この作品で女優デビューを果たしたノラ・ジョーンズとジュード・ロウの間のダイアローグの洒落た雰囲気が凄く良かった。映像や語法が凄くミニマルな部分に好感が持てる。


「アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生」。私の大好きな女性写真家の生き様を表現した作品。写真が表現する視覚芸術に止まらず、彼女自身が歩んできたProfessionalismとは何かを探るにも適した作品だった。彼女の名前を知らなくても、彼女の撮った写真は皆さん一度は目にしてると思いますよ。


最後は、賛否両論、罵詈雑言、などなど多様な意見が飛び交った作品「クローバーフィールド」。最近スカパーのPPVでも見直したのだが、劇場で観た当初は私自身の評価は低かった。やはりこの作品のリアル感覚に関しては評価すべきだと感じ始めている。というのも、かの「ブレアウィッチ・プロジェクト」とは違う深さで、現場視線(=事象に居合わせた普通の人々が撮影した記録をそのまま映画にした)感覚を与えている所が新しい。高度情報化社会での多様なデジタル・デバイスで、事件、事故、災害を即座に撮影し、リアル・タイムで流していくコミュニケーションに対しての警告も含まれている感じもするし。

以上が今年見た作品から厳選した作品である。
その他にも、インディージョーンズ、X-File、イーグル・アイ、スパイダーウィックの謎、ハプニング、ハムナプトラ3、WALL-E、シルク、などなど多くの作品を観てきたが、ここに書こうと思わせるまでには至らなかった。

2009年も自身の動体視力を大事にしながら、多くの作品を鑑賞し、私の思考を活性化させたい。

Friday, December 19, 2008

2009年のKeywordは

このフレーズがぴったりくるんじゃないかと思う。

それは、「Architecture」。
このキー・コンセプトを導き出すのに、昨日のCTM(Creative Thinking Meeting)における議論で最も時間を割いた。
建築、社会設計(デザイン)、そしてコンピュータ・システムの3つの意味を併せ持つ言葉「Architecture」。これは現代社会で、多様なニーズに答え、人間を無意識のうちに管理する工学的で匿名的な権力の総称になりつつある。

私が今回の議論で、このフレーズを提示した背景として、現時点での世界経済、ビジネス環境の大転換の潮流の中で、既存システムをポジティブなモノへと変換していくべきコンセプトが必要なんじゃないかと考えた。今回のコンセプトを考えるにあたって、随分前に読んだクリストファー・アレグザンダーの「A City is not a Tree」と、ジェーン・ジェイコブズの「都市の経済学」からの概念をベースとした。特に、アレグザンダーの考えとして、自然都市(長い年月の間に生成した都市)はセミ・ラティス構造によって組織されているのに対して、人工都市(建築家やデザイナーによって慎重に計画された都市)は階層的に構成されるツリー構造によって組織されていると表現した。ツリー構造=欲望型資本システムがここ数年、厳密に守られてきたからこそ、今回の世界的破綻を招いてしまったのかもしれない。もちろん、全てのシステムをセミ・ラティス構造へと転換していくことは困難だろうが、今こそこの建築的思考を大事に考えていきたい。

このコンセプトや建築的思考については、柄谷行人の「隠喩としての建築」に詳しいので、そちらを参考にしてもらいたい。


いずれにしても、現在の欲望型高度資本主義は終焉を迎えようとしている。このシステムが瓦解の極点にまで達しているのであれば、待つのではなく対抗策および今回我々が導き出した建築的思考による発想の転換こそ必要なのでは。

Tuesday, December 16, 2008

Must Read in 2008

ここに来て、自分には教養がある、または教養を付けたいと思っている人が今年中に「読まねばならない」本が登場した。それは、水村美苗が著した「日本語が亡びるとき」。


今年も様々な本や書き手が登場し、私自身も多彩な読書を重ねたが、「日本語が亡びるとき」はそれまでの読書とは違った感覚に囚われた。
彼女の過去の著作:「續明暗」(夏目漱石の続編を創造する試み)や「私小説 from left to right」(英語と日本語を融合させた横書きの小説)などの実験的な小説には、その時々で新鮮な感動を覚えてきた。
今回は批評と物語が融合した形で展開していく作品と表現したらいいのだろうか。この書には大切な事柄が多く含まれている。我々が学校で習う「国語」が、現在の「当用漢字仮名まじり」&「現代仮名遣い」となった歴史的経緯についての記述もその1つ。他にも翻訳文学における英語と日本語の関係性、日本語の脆弱さ、日本語と国家の関連、言語教育なども述べられていて、実に知的好奇心を擽られます。

「日本語が亡びるとき」のロジック理解をより深めたい方には、次の2冊がお薦めです。
まずは、今回の作品でも引用が多い、ナショナリズムの古典として名高い「想像の共同体」。これは、ベネディクト・アンダーソンが、国民国家を自身の長期の世界史的視野で論じた著作だが、特に国家を機構=機械、言い換えれば自然なモノではないという述べた。国家はそれ自体存在論的意味を持たず、そこに国民というエッセンスが付加されることで意味を与える。この書は、一言では表現し難い多くの示唆に富んでいる。


次に、私が現在最もリスペクトしている柄谷行人の著した「近代文学の終わり」。水村自身20代の頃、イェール大学で教えていた柄谷に直接指導を受けている。柄谷はこの書の中で、文学のみならず、建築であれ、美術であれ、内面の表現などというものがほとんど姿を消し去り、単に表面的なイメージだけがグローバル市場で消費されていることに危機感を覚えている。文学だけを眺めてみると、そこには翻訳(日本語をいかに英語化するか)の課題や弊害が横たわる。アクチュアリティを失わない変幻自在な発想力をもつ柄谷でさえ、言語に対する思考への障壁の高さを感じさせた。


水村は「日本語が亡びるとき」の中で、私が共感する一節がある。「いくらグローバルな<文化商品>が存在しようと、真にグローバルな文学など存在しえない。グローバルな<文化商品>とは、ほんとうの意味で言葉を必要としないもの ー ほんとうの意味で翻訳を必要としないもの」しかありえないというフレーズ。でもそれは、言葉がグローバルなものと無縁でしかありえないことを暗に示唆している。

私は2008年の最後に、日本語で書くという行為は、グローバル化された英語でのコミュニケーションでは到底体験しがたい言葉の真の運動性が、読む者を甘美に武装解除しているのだ、ということを考えさせられた。

Thursday, May 15, 2008

Kojin Karatani at Stanford Univ.(vol. 1)

Title: Beyond the Trinity of Capital, Nation, and State



Karatani's English is so-so; however, his parole and thinking concept lead to critical space!!