Tuesday, December 16, 2008

Must Read in 2008

ここに来て、自分には教養がある、または教養を付けたいと思っている人が今年中に「読まねばならない」本が登場した。それは、水村美苗が著した「日本語が亡びるとき」。


今年も様々な本や書き手が登場し、私自身も多彩な読書を重ねたが、「日本語が亡びるとき」はそれまでの読書とは違った感覚に囚われた。
彼女の過去の著作:「續明暗」(夏目漱石の続編を創造する試み)や「私小説 from left to right」(英語と日本語を融合させた横書きの小説)などの実験的な小説には、その時々で新鮮な感動を覚えてきた。
今回は批評と物語が融合した形で展開していく作品と表現したらいいのだろうか。この書には大切な事柄が多く含まれている。我々が学校で習う「国語」が、現在の「当用漢字仮名まじり」&「現代仮名遣い」となった歴史的経緯についての記述もその1つ。他にも翻訳文学における英語と日本語の関係性、日本語の脆弱さ、日本語と国家の関連、言語教育なども述べられていて、実に知的好奇心を擽られます。

「日本語が亡びるとき」のロジック理解をより深めたい方には、次の2冊がお薦めです。
まずは、今回の作品でも引用が多い、ナショナリズムの古典として名高い「想像の共同体」。これは、ベネディクト・アンダーソンが、国民国家を自身の長期の世界史的視野で論じた著作だが、特に国家を機構=機械、言い換えれば自然なモノではないという述べた。国家はそれ自体存在論的意味を持たず、そこに国民というエッセンスが付加されることで意味を与える。この書は、一言では表現し難い多くの示唆に富んでいる。


次に、私が現在最もリスペクトしている柄谷行人の著した「近代文学の終わり」。水村自身20代の頃、イェール大学で教えていた柄谷に直接指導を受けている。柄谷はこの書の中で、文学のみならず、建築であれ、美術であれ、内面の表現などというものがほとんど姿を消し去り、単に表面的なイメージだけがグローバル市場で消費されていることに危機感を覚えている。文学だけを眺めてみると、そこには翻訳(日本語をいかに英語化するか)の課題や弊害が横たわる。アクチュアリティを失わない変幻自在な発想力をもつ柄谷でさえ、言語に対する思考への障壁の高さを感じさせた。


水村は「日本語が亡びるとき」の中で、私が共感する一節がある。「いくらグローバルな<文化商品>が存在しようと、真にグローバルな文学など存在しえない。グローバルな<文化商品>とは、ほんとうの意味で言葉を必要としないもの ー ほんとうの意味で翻訳を必要としないもの」しかありえないというフレーズ。でもそれは、言葉がグローバルなものと無縁でしかありえないことを暗に示唆している。

私は2008年の最後に、日本語で書くという行為は、グローバル化された英語でのコミュニケーションでは到底体験しがたい言葉の真の運動性が、読む者を甘美に武装解除しているのだ、ということを考えさせられた。

No comments: