Saturday, August 01, 2009

Mid-summer Night's Dream

Tonight, there was Kobe Kaijyo Hanabi Taikai, the fireworks festival at the Kobe port, which is the biggest fireworks festivals in Kobe.

Hanabi, literally means flower fire. This festival is held on the first Saturday of August every year from 19:30 to 20:20.

Tonight's Hanabi also made the flower of the large flower bloom on the night of the mid-summer.

From My House
















Thursday, July 23, 2009

今日という日にLeadershipについて考えてみよう

一昨日衆議院が1年遅れで解散し、総選挙へやっと政界は動き始めた。
昨日我らが阪神タイガースは、ダメ虎時代を彷彿とさせる無様な戦いをこの時期になっても未だ続けている。

この2つの事象は全く違うように感じられるだろうが、実は根っこの部分では同じ問題を孕んでいると私は考える。
ではその問題とは何か?
ズバリッ、それは「リーダシップ」である。

日本国の最高権力者と阪神タイガースの指揮官

私は、この2人の指導者のリーダシップに関しては、いささか疑問に感じている。
もっと辛辣に言えば、この2人にはリーダーシップが欠如している。
すぐさまご退場願いたいというのが本音。

私が経営大学院時代、リーダーシップとは「価値の源泉を明確にし、チャレンジする機会を追い求め、厳しい現実に立ち向かっていくことで、社会や組織やコミュニティを方向付ける一連の活動」のことであると、折に触れ叩き込まれた。
このリーダーシップの定義だけから見ても、上記2人の共通の一貫性の無さ、ぶれる、戦略の無さなど、リーダーとしての資質を疑われるポイントが数多く見受けられる。

今まで日本ではリーダー論を論じる時、平時と有事という区分で、そのリーダーの資質を決めてきたように思う。例えば、18年間優勝経験がなかった阪神タイガースを、星野仙一という有事に強いリーダーに託し、ダメ虎をセリーグ制覇へと2年間で押し上げた。
しかし、現在のように不確実な時代の中では、リーダーを決める際に考えるべき資質について、もう少し深く論じる方が良いように思う。

まず、皆さんが思い描く卓越したリーダーの資質とは何でしょうか?
大胆な決断を下し、人々をぐいぐい引っ張っていくカリスマ的リーダーを頭に浮かべるでしょうか。
私は基本的リーダーの資質として、
● 一貫性がある
● 常に前向きである
● 何事に対しても正直である
● 自分の強みを活かせる
● 他者に影響を与えられる
これら5つが最低限必要と考える。

この基本的資質に加えて、米国の経営学の権威とも表現されるピーター・ドラッカー達がリーダーの資質として挙げていて、私が重要と考えるのは、
● ビジョンや信念を持っている
● 多様性に対応できる
● 状況に応じて柔軟にアプローチできる
● リスク・テイクできる
● 後進を育成する
● 喜びを他者と分かち合える
これら6つのポイントになる。

上記11個の卓越したリーダーとしての資質を見て明らかなのは、リーダーが持つスキルではなく、信念、発想、行動など「人間力」にフォーカスされていること。

こういう風に、「人間力」を基点としたリーダー論を考える時、どのポイントにも上記2人の指導者は当て嵌まらない感じがする。
では、何故彼らを選択してしまったのか?
それは、名選手だったから監督としてのスキルも高いんじゃないか、昭和の名宰相の孫だからスキルが高いんじゃないか、と言う安易な幻想に囚われ、リーダーをチョイスしてしまった悲劇が、こういう現状を生み出している。

我々日本人もこの混沌とした時代に、真の卓越したリーダーを求めて、そろそろ星に手を伸ばさなければならない。
こんなことを思索していると、ある1つのCMが私の頭をよぎる。
そのCMはアップル・コンピュータが創造した有名なモノ。
そこには、エジソン、マハトマ・ガンジー、アルバート・アインシュタイン、キング牧師、ピカソなど、各分野で真のリーダーとして名を馳せた人々が次々と姿を現す。

apple Think different seinfeld ad

そして、バックグラウンド・ミュージックのように強烈なメッセージが埋め込まれている。
「世界を変えることができると、本気で信じている人達こそが、本当に世界を変えているのです」

Wednesday, July 15, 2009

1Q84≠1984:ポリフォニーな世界観

私はこの物語を、なかなかレビューする気にはなれなかった。
どう表現したら良いのかは分からないが、久々に読み終えるのが何だか名残惜しくなってしまい、読了後も余韻に浸っていたかった、というのが本音だろう。

1ヶ月以上前に、村上春樹の7年ぶりの新作は発売された。そこから2回読み返し、今回のストーリーのベースになったと推察できるジョージ・オーウェルの「1984年」も読み返し、やっと本日レビューらしきものを書こうかと思い到った。1949年にジョージ・オーウェルは、近未来小説として「1984年」を描いた、しかし村上春樹はそれとは全く反対に2009年に、こうであったかもしれない世界、つまり近過去としての物語「1Q84」を描いた。


私は基本、村上春樹の小説に関しては、余りレビューなどを書かず、自分の世界で完結させることを今までは好んでいた。今回の小説に関しては発売前からえらく話題になり、ちょっと社会現象にまで飛躍しているので、私なりのこの小説への向きあい方も含め、ちょっと書き残しておくことにした。

現在存命の小説家の中で、私が唯一処女作から読み続けているのが村上春樹。中学2年生の時、手に取った「風の歌を聴け」の鮮烈さから、私をフィクションの虜にした。彼の描く世界は、そのセンテンスの余白に多様な声が隠されている。今回の作品で言えば、あのオウム真理教事件的事象であったり、1949年(ジョージ・オーウェルが「1984年」を著した年)生まれの村上春樹が辿った同時代的な精神史であったり、「壁と卵」のエルサレム賞での村上スピーチの比喩的構成であったり、30歳の主役の男女以外の脇役たちが実に知的な文脈で我々読者に対話を挑んだり、といった具合に多声的であることは、今までの村上作品と共通している。

オーウェルの「1984年」がファシズム的システムへの批判であったように、「1Q84」で村上春樹が投げかけたメッセージも大文字の社会システム的な眼差しへの明確な批判であったように思う。
村上春樹が今年行ったエルサレム賞でのスピーチ:「壁と卵」を思い起こすと、あの時点からこの物語の序章が始まっていたのかもしれない。「壁=人間が創造したシステム=1Q84における邪悪なもの」vs.「卵=1人ひとりの人間=30歳の男女の主人公と、彼らをサポートする脇役達」という、大きな意味での構図が浮かび上がってくる。

このブログを読んでいただいている皆さんは、「1Q84」を未読の方もいると思うので、この1,000ページ以上の大作のコアの部分には触れないように、キーワード化によってこの作品を振り返っておきたい。

<1Q84を巡るキーワード&フレーズ>
現実世界とちょっとだけずれた世界/新興宗教/オカルト/DV/切ない純愛/特定のサウンドの共鳴/神話的構造/村上作品初の父性の発見/小説のリライト/造語的世界/レイモンド・チャンドラー的「殺し方」/テロル/あなたの空に月はいくつ浮かんでいますか?/チェーホフの「サハリン島」/ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」/ビッグブラザー的邪悪なもの/地下鉄サリン事件&阪神大震災における非日常的空間/

以上が私がピック・アップしたキーワード&キーフレーズになる。しかし、これらは私が「1Q84」を読み進める中で感じたものだから、皆さんにとってのキーになるテクストが表出してくると思います。
今回の作品は、文学的エッセンスもほど良く散りばめられ、現代社会が抱える多くの病巣的プロットも含まれる中でこのストーリーは展開します。だから、村上春樹の熱心じゃない読者でも、真のフィクションを楽しみたいと思われる方には一読をお薦めします。「1Q84」は必ずや皆さんの心に突き刺さる「何か」を提示してくれるでしょう。

<音的&心的「1Q84」モノローグ>


「1Q84」では、ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」がバックグラウンド・ミュージックとして物語のエッセンスのように鳴り響く。その管弦楽曲によって、物語の主人公達は1984年とはちょっとずれた1Q84年に迷い込む。私はこの物語の入り方が、堪らなく好きである。

そして、物語の終わり近くで、昨年の私とシンクロする部分があった。「明るい言葉は人の鼓膜を明るく震わせる」 というテクストである。昨年病床の父が、最後には意識が無くなった時、私は父に対して家族で旅した世界各地で遭遇した楽しかった出来事などについて、父の耳元で明るく話していたことを、その物語は思い出させた。私は父の鼓膜を明るく震わせることができたのだろうか。

Monday, July 13, 2009

My 100 Standards(8/100):Seiko World Watch

8つ目のモノに対するストーリーは、父親の形見の腕時計である。
昨年7月に他界した私の父は、今回ご紹介する「Seiko World Watch」をビジネスシーンでいつもはめていた。
父親はビジネスの世界で結構高い地位にまで上り詰め、グローバルに世界を飛び回り、リーダーシップのある人間だった。そして、いつもゴールドとシルバーが絶妙に融和した、その粋な時計が腕にはあった。



私は父がその腕時計をはめて、海外出張に行く父の姿を見送りながら、幼心に私も海外への夢を持った。そして、アメリカの大学院へ留学を果たし、その後父親が引退した時この時計は私の手に渡った。
それ以降、私のターニングポイントとなる瞬間:大学院の卒業式、大事なプレゼンなどには、この腕時計をはめている。幸運を呼ぶ時計という訳ではないが、いつも私にとっての大事なシーンにこの時計が共にある。

一昨日の7月11日、丁度この日は1年前父親が亡くなった日なのだが、無事一周忌を終えた。
その日も、私の腕にその時計がはめられていたことは言うまでもない。

Wednesday, July 01, 2009

Thinking about "Breakthrough" on July 1st

I like word “Breakthrough.” This word includes the positive meaning of clearing the door for innovation or getting over any problems.

Recently, the world economy that various problems surfaced at a stretch possesses it for a coming situation for stabilization again and continues groping for it. Under these situations, we must right break through those difficulties.


As the prescription for a beginning of the solution of various problems in global market, Harvard Business Review(HBR) provides “Breakthrough ideas for 2009.”

Twenty power concepts for 2009 are the following:
01. Consumer Safety for Consumer Credit
02. Now's the Time to Invest in Africa
03. Just Because I'm Nice, Don't Assume I'm Dumb
04. Forget Citibank - Borrow from Bob
05. Harnessing Social Pressure
06. The Rise of Forensic Economics
07. A Looming America Diaspora
08. Institutional Memory Goes Digital
09. The Business of Biomimicry
10. The IKEA Effect: When Labor Leads to Love
11. Beware Global Cooling
12. The Dynamics of Personal Influence
13. Western Union World
14. State Capitalism Makes a Comeback
15. Launching a Better Brain
16. Stumbling to a Longer Life
17. What You Need to Know About the Semantic Web
18. How Social Networks Network Best
19. Should You Outsouce Your Brain?
20. A Central Nervous System for the Earth

These ideas are constructed various domains like Architecture, Psychology, Criminal Psychology, Biology, Futurology, and so on. In short, HBR proposes that many problems which the current world has mean what you should exceed by the entirety of the intellect.

Therefore, I want to regard words called the “Breakthrough” as important.

Tuesday, June 30, 2009

My 100 Standards(7/100):Levi's(R) Fenom Cropped

今回も私のモノに対するストーリーにお付き合いいただきたい。
7回目のストーリーは、私がここ数年愛用し続けているジーンズに対するお話です。

男性の装いを考えるとき、パンツって結構ポイントになるんですよね。
どんなに上品で、立派な上着を着ていてもパンツが不粋であったりすると、装いがトータルで台無しになってしまう。と言うことは、パンツさえ上質なモノをチョイスしていれば、ある程度格好がつくってこと。

私にとっての上質なパンツというのは、シンプルなデザインのフラノパンツであったり、ウール×シルク混のパンツであったりする。じゃあ、カジュアルにおける定番となると、やはりジーンズになるだろう。今まで、ハイブランド系のジーンズも数多く穿いてきたが、やはり基本はLevi's。その中でも、ここ数年はLevi's(R) Fenomを穿き続けてる感じがする。

Levi's(R) Fenomは2004年11月、藤原ヒロシのディレクションによってLevi'sが持つ歴史&ディテール・アイコン、物造りへの拘りを維持しつつも、ストリートから影響された刺激を吸収し、アウトプットしたイノベーティブなジーンズである。特に、Levi's 505や207をベースとし、エッジの効いたクリエイティブやディテール、素材・縫製・付属品などの服の創造を支える基盤は、Levi's(R) Vintageに代表される、素晴らしいクオリティを踏襲している部分にも魅力を感じる。

愛用のLevi's(R) Fenom Cropped3本(時計回りにGrey Color、Indigo、Blackの各ジーンズ)


特に初夏から初秋頃まで、私はLevi's(R) FenomのCropped(7分丈と言われたり、半端丈と言われたりする)を愛用する。つまり、Levi's(R) Fenomがこのシーズンにおける自分の装いの全てを決めている。

サイドのジッパーによる機能美、サンドリー&プリントのカラーをパープルやブルーなどにする遊び心など、クリエイティブ魂溢れるこのジーンズを、暫く私は愛用し続けるだろう。

Sunday, June 28, 2009

My 100 Standards(6/100):イスズベーカリーのガーリックパン

なかなか進まない、私のモノに対する100のストーリー。
今回で6つ目のストーリーになるが、初の「食」に対するストーリーである。

神戸はスイーツでも有名だが、ベーカリーでも有名な店が多く存在する。
その中でも、私が一番よく利用しているのが、「イスズベーカリー」。
イスズベーカリーは神戸で創業されて、既に60年以上が経つ、老舗中の老舗。
そこで売られるパンの数々は、まさに至高と言われるに相応しい商品が多い。

この老舗が創造するパンの中でも、私が今回100物語でチョイスしたのは、「ガーリックパン」である。


私はこれまで、海外でもガーリックパンを色々食べてきたが、イスズベーカリーのガーリックパンはパンの生地自体の美味しさもさることながら、ガーリックの風味、滑らかなバターの浸透度合いによって、トータルに深みのある味わいが確立されている。
私はこのパンで、ペペロンチーノやビーフシチュー、そしてワインを飲む休日の昼下がりが好きである。

今後も浮気せず、ガーリックパンはイスズベーカリーで買い続けるだろう。

Friday, June 12, 2009

My 100 Standards(5/100):ペーパーナイフ

久しぶりのモノに対するストーリーを綴ってみよう。
今回は十数年前に、NJの知り合いの方にいただいたペーパーナイフである。

皆さんはペーパーナイフを使ったことはあるだろうか。
私が初めてペーパーナイフの存在を知ったのは、とある映画のワンシーンだったように記憶している。その映画の主人公が、実に美しくLetterをペーパーナイフを使って開封しているところを目にし、いつかは私もこの主人公のように美しく手紙を開けてみたいと思っていた。

それから何年も経って、アメリカへ渡り大学院で勉強をするようになるまでペーパーナイフのことは記憶の果てに忘れてしまっていた。私のアメリカでの論文担当教授が、オフィスでペーパーナイフを使用するのを見るまでは。その教授はスーツの着こなし、シガーの吸い方などが実に格好いい人だったのだが、ペーパーナイフの使い方もあの映画の主人公のように美しかった。彼がペーパーナイフで封筒を開ける洒脱な所作が今でもまだ目に焼き付いている。

時を同じくして私は、その憧れのペーパーナイフを手にすることとなる。
そのペーパーナイフは十数年を経た今も尚、私は使い続けている。


このペーパーナイフは、私がアメリカ時代お世話になった方がイスラエルへ旅行した際のお土産として貰ったモノ。柄の部分には、“God Bless Our Home”と刻まれていて、ナイフ部分のデザインは水色と赤色でカラーリングされている。
初めてこれを使用した時は、なかなか上手く、ましてやあの映画の主人公や教授のようには、封筒を開封できなかった。しかし、長年使っていると、段々私の身体の一部のようにペーパーナイフが馴染んできて、どんな封筒や手紙でもサッと開封できるようになった。スムーズにペーパーナイフで紙を切った瞬間、それが上手く切れた感触と、紙を裂いた質感が何とも言えず好きである。

Monday, June 01, 2009

Thinking on June 1st

● Design should be about creativity. It is critical to recycle or reinvent the old but I still believe we need to produce something new. This may sound like an exaggeration, but this is how we create our future. Design means not creating the present but creating the future.

● Great work has something that changes the surrounding atmosphere.

● I have to jump over the last hardle to get the miraculous feeling.

I will charge through this June while being careful with these three phrases.

Saturday, May 30, 2009

杉本博司「歴史の歴史」展:デュシャン的世界観

「アートとは技術のことである。眼には見ることのできない精神を物質化するための。
私のアートとは、私の精神の一部が眼に見えるような形で表象化されたものである。いわば私の意識のサンプルと言っても良い。(中略)
私の集めた遺物たちは、歴史が何を忘れ、何を書き止めたか、そんな歴史を教えてくれる。」

これは先日私が足を運んだ、杉本博司「歴史の歴史」展@大阪国立国際美術館で配布されたパンフレットからの抜粋である。


一歩展覧会場に足を踏み入れると、そこはもう世界的写真家であり、現代美術家であり、美術収集家である杉本博司ワールド満載の空間が広がっていた。

展覧会エントランスにて

歴史の全てがそこにあるかのような空間に足を踏み入れると、化石(杉本は化石を古代世界を写した「写真」と表現)に始まり、当麻寺古材と自作写真のコラボレーション「反重力構造」(天平と現代のコラボレーション)、放電場の大インスタレーション、そして仏教&神道美術のコレクションの数々。美しい表装。戦犯写真や月の石、宇宙食の食べ残し、収集された骨董、アポロ計画ゆかりの写真、戦争中のタイム・マガジンの表紙(ヒトラーがこれだけカバーになってた驚き)、解剖図(杉田玄白の解体新書など)。
さらに、杉本博司の作品の中で私が最も好きな「Seascapes」が弓なりの壁に等間隔で展示され、漆黒の闇の中に多様な海の写真が朧気に浮かび上がる様は圧巻であった。

圧倒的な歴史の事象が収められたカタログ

今回の展示会は、私に世界的写真家&美術家である杉本博司の所蔵する化石、古美術、近代遺産と、杉本作品との融合の美しさと、奥行きの深さに眩暈さえ憶えた。

今回のblogのサブタイトルに「デュシャン的世界観」と付加したかと言えば、展示品の中にマン・レイ撮影のマルセル・デュシャン写真を額装し、ガラスに3発おもちゃのピストルで弾丸を撃ち込んだと覚しき作品を目にしたからである。デュシャンといえば、美術館に便器を提示し、これは美術館に置かれた作品だと言い切った。それは、便器というモノを、日常に於いて持っている関心を括弧に入れて見よというシグナルである。
このように既成の物をそのまま、あるいは若干手を加えただけのモノをオブジェとして提示した手法が「Ready-Made(レディメイド)」。
今回の展示会で杉本博司が示唆したのは、歴史のレディメイドだったのかもしれない。アートの展示会というと、アーティストの作品のみが展示されるのが常であるが、今回杉本が試みたのは自分が所蔵する化石や雑誌などを自身の作品と共に、これもアートだと展示した。デュシャンがあらゆるものが芸術であると示したように、関心を括弧に入れて無関心としたように。
デュシャンのレディメイドも、杉本の「歴史の歴史」も、対象への「括弧入れ」をもって成立するが、実はその「括弧入れ」=無関心こそがカントの真・善・美といった領域が審美の根幹を成していることを、柄谷行人は「美学の効用」の中で議論している。

Thursday, May 21, 2009

感染地域としての神戸:非日常的光景への眼差し

神戸まつりも中止になり、三宮センター街や元町商店街はマスクを装着した人、ヒト、ひと。。。
そしてコンビニやドラッグストアには、ソールド・アウトが続くマスクを求める人々の列、列、列。。。
今日は、私と同い年の「三宮地下街(さんちか)」(1965年開業)も全面臨時休業となった。
そして、神戸市役所前には、連日増加し続ける新型インフルエンザ感染者の数や、市役所が発表する情報を垂れ流すテレビ各局の車や関係者が溢れる。

非日常的眼差し:神戸市役所前

この光景って何だろう、一種戒厳令下の様相を呈している。そしてこの光景はいつか見た日の光景、そう、あの14年前の阪神大震災の時の光景ではないだろうか。
私は阪神大震災の時には海外にいたため、その状況を原体験していない。しかし同様の体験として、NYでの大雪&異常低温の際の外出禁止などの状況と、現在の神戸を重ね合わせてしまう。

今の所、感染力の高いインフルエンザが蔓延して全国に拡がりつつある状況を打破する決定打=ワクチンも無い中、行政当局が「外出を自粛し、手洗いうがいを励行せよ」とアナウンスしているのを「そのまま」遵守している市民をつかまえて「騒ぎすぎだ」と言うのはどうであろうか。そしてもっと難しい問題は、外出自粛などの公的アナウンスを解除する時の可能なロジックがあるのかということである。

世界的経済危機が若干緩和されてきた中での今回のパンデミック、この現象は経済活動、消費活動をじわじわと浸食し始めている。感染のリスこはこのまま引き続きあるが、神戸市民がじっと家に籠もっていると、モノやサービスが売れないので、外に出て、消費活動を始めましょう、などというアナウンスは論理的に許されない。公衆衛生と経済・消費活動というパラドックス的事象を、今の日本の行政が上手くコントロールできるのか疑問である。

いずれにしても、今回の新型インフルエンザ現象は当分続くだろうし、今年の秋・冬にはそのウィルスが変異することでより一層リスキーなパンデミックが起こる可能性も否定できない。
世界中の人間がいつ起こるとも分からない真のパンデミックに怯え、それに対抗する政府の監視のために自由と人権が制限された社会になってしまうのだろうか?

感染地域:神戸で私が思考したことは決して大袈裟なことではないだろう。今そこにある危機という状況に今後備えるためにも、日本の行政は今一度再考しなければならない。こんな時こそ、君主論で知られるニッコロ・マキャヴェッリの言葉を思い起こして欲しい。
「必要に迫られた際に大胆で果敢であることは、思慮に富むことと同じと言ってよい」。

Monday, May 18, 2009

My 100 Standards(4/100):赤鼻微睡み犬のブックスタンド

4つ目のモノの物語は、奈良美智デザインのブックスタンドである。
奈良美智は世界的に評価されるポップArtistである。
彼の作品を初めて観たのは15年ほど前のニューヨーク。その時目にした彼の代表作でもある睨む少女のモチーフや眠ったような犬のスカルプチャーなどの数々のデザイン性の高い作品群。その新しいArt潮流の出現に息を呑んでしまったのを、今でも鮮明に思い出す。

その色彩を帯びた記憶にもう一度出会ったのが、ニューヨークから9年後のオーストラリア・シドニーのとある美術館だった。今回ご紹介する赤鼻の微睡んだ犬のブックスタンド、その美術館のショップで見つけて、即購入してしまった。

微睡む犬

奈良美智のサインが

それから6年以上、そのブックスタンドには、新たに購入した書、読みかけの書、読み返したい書が静かに鎮座している。
これからも微睡む犬のブックスタンドには、私の好奇心&知的欲求を満たす書が並んでいくのだろうか。
その光景を思うだけでも、ちょっとワクワクしてしまう。

現在ブックスタンドに挟まれる書達

そこには、建築本、思想本、デザイン本、ビジネス本などが静かに鎮座する。

Thursday, May 14, 2009

クリエイティブの揺らぎの中で:ヒト、書、映画、そして。。。

GW期間中に私自身の中で揺らいだクリエイティブな事象について綴ってみよう。

5月2日
日本列島がGW真っ盛りの中で、ブルースを表現させたらピカイチのシンガーが永眠した。
忌野清志郎、58歳の余りに早い生涯であった。


先日の深夜、何も考えずTVをオンにすると、そこには一時癌という病を克服し、元気にシャウトする忌野清志郎の姿を映し出していた。私が中学生の頃聴いていた「雨上がりの夜空に」「スローバラード」を力強く歌い上げていた。
その彼が、今はもう鬼籍に入ってしまっているとは、信じ難いことである。
ご冥福をお祈りします。

しかし、私が興味を持った表現者達は早く逝ってしまう。
寺山修司(47歳)、松田優作(40歳)、坂口安吾(48歳)、そして忌野清志郎(58歳)。
こうして考えると、表現を極めた者達は、常人の数倍の早さで自分の身を焦がすほどに才能を燃焼し尽くしてしまうのかもしれない。
彼らに共通しているのは、自身の分身とも言える作品が未だに人々を感動させ、影響を与え続けていること。
そこには「死」ではなく、「生」が確かに存在する。

5月某日
皆さんは、吉岡徳仁という名前を聞いたことがあるだろうか。
彼は今、世界が最も注目するクリエイターの1人と言っていいかもしれない。
彼のアップデートな仕事は、東京で開催中の「『Story of...』カルティエ クリエイション~めぐり逢う美の記憶」。カルティエは皆さんもご存じの通り、時代の技術の粋と独創性によって、今もなおジュエラー界のイノベーター的存在である。吉岡は独自のアプローチによる、カルティエが創造してきたジュエリーの過去・現在・未来のストーリーに着目した構成は、新たなクリエイティブの扉を開いている。

今まで纏まったテクストを世に出していなかった吉岡徳仁が、自身のデザインとの向き合い方、考え方などを著したのが「みえないかたち」である。


吉岡の初めてとも言える纏まった形のテクストで彼が一貫して述べているのは、デザインというモノは「かたち」ではないということ。彼にとって、デザインとしての「かたち」は重要な要素ではなく、「かたち」は無くても良いと言い切る。吉岡にとってデザインとは、他者にコミュニケートする「かたち」の裏側にある空気感や雰囲気を表現する手段なのかもしれない。だから、彼の作品は椅子にせよ、空間インスタレーションにせよ、形ではなく人の心に「響く」モノを表現し続け、そのことが世界に評価されているのだろう。
今回彼の思考の断片を1つのテクストで読んだことで、吉岡徳仁というクリエイターにより深い共感を覚えた。

5月某日
久しぶりに映画を観た。
ちょっとべたな感じはするけど、今年のアカデミー賞ナンバーワン映画「スラムドック$ミリオネア」を堪能した。


この作品は、私の好きな映画の1つでもある「トレインスポッティング」の監督・ダニー・ボイルと聞けば、観る前からちょっとワクワクしてしまった。
やはり彼の映画は私の期待を裏切らなかった。インド版「クイズ・ミリオネア」で主人公が勝ち進んでいく中、主人公のライフストーリーと解答が交錯していく。ダニー・ボイルならではの疾走するストーリー展開で、私をラストまで一気に引き込まれていった。

この作品は公開中でもあり、これから鑑賞する方もおられるだろうから詳細には語らず、記号化してお伝えしておこう。
インド社会の過去・現在・未来/圧倒的な格差問題/偶然性/ファンタスティック/Destiny≠運命/奇跡譚/機動性の高いストーリー展開/暴力的描写と幸福的描写/苛烈な宗教対立/
というのが、この作品のコアとなってくるんじゃないかな。

いずれにしても、この作品は私の中で今年一番であったということだけは確かである。

このように、GW期間中に私が感じ取った3つのクリエイティブ的揺らぎ。
その揺らぎの感覚は、
“...making its nature manifest to the very senses as well as to the intellect.” by Galileo Galilei
このフレーズへと帰結する。

Tuesday, May 05, 2009

My 100 Standards(3/100):HERMESのネクタイ

3つ目の愛用品の物語は、エルメスのネクタイである。
私は仕事を始める前から、祖父や父から多くのネクタイを譲り受けてきた。
その中でも、私が最も多くビジネス・シーンで愛用してきたのが、エルメスのネクタイではないだろうか。
このネクタイと私は受け継がれた愛情で結ばれていると言えるかもしれない。

エルメスのネクタイは、私をいつも楽しませてくれるし、他者をも楽しい気分にさせてくれる。
つまり、このネクタイ達は私を自由にしてくれるのだ。
21世紀の現在、ファッションなどを含む文化的価値観は、「かくあるべし」から「こうする」という風に変わってきている。例えば、ネクタイ1つ取ってみても、もはや「お仕着せ」ではなく自ら「選び取る」モノとなったんじゃないだろうか。これを男女の関係に例えるなら、役割分担と義務に縛られた夫婦から、惹かれあい求め合う恋人同士のそれへの変化と似ているようにさえ思える。

エルメスのネクタイ達


この写真のネクタイ達は、私のエルメスコレクションのほんの一部だが、一番今までよく結んできたモノ達である。イルカやシマウマなどの動物柄あり、ペガサスのような想像上の生き物柄あり、汽船柄やスカーフ柄ありと、ホント多様な色彩とデザインによって、私を長年楽しませてくれている。
以前読んだ本の中で、エルメスのネクタイに付加されたデザインには、様々なコンセプトやストーリーが含まれているというテクストを目にしたことがある。それだけ練り上げられたクリエイティブだからこそ、長年飽きが来ないんだろうと、妙に納得もした。

Cool Bizなどによって、特に夏場になるとネクタイを締めないビジネス・パーソンが増加している中、私はこのCommunicationの一部となっているファッション・アイテムを今後も結び続けていくだろう。エルメスのネクタイは自己表現の一部でもあるから。

最後に、エルメスのカタログに記されていたネクタイにまつわるテクストをお届けしよう。
“Why wear a Tie? For pleasure, for wanting to scintillate, for the taste of a challenge, or for the need to attract; but often, too, for the wish to express oneself, to deliver a clear message. That, without doubt, is the best reason, since it's the most eloquent.”
(訳)「ネクタイをする理由は色々。楽しみのため、自分を引き立てるため、気持ちを引き締め、己を鼓舞するため、誰かの目を惹き付けるため、などなど。でもそればかりではありません。ネクタイは自己表現の手段、意志を明確に伝える有用な媒体です。おそらくそれが、ネクタイをする一番の理由。人を納得させる手段として、これに勝るものはありません」

Friday, May 01, 2009

Phrases which continue affecting me

First blog in May will be studded with my favorite phrases.
First of all, I will introduce one book to use when I boiled down by making proposal and by making sentence.
It's book is "401 design meditations." This book has collected wisdom, insights, and intriguing thoughts from 244 leading visionaries.


Then I will introduce some particularly favorite phrases in this book.

● "Good design is good business." (Thomas Watson, Jr.; Founder of IBM)

● "Design is a response to social change." (George Nelson; Architect and Industrial Designer)

● "The good is not a category that interests me." (Rem Koolhaas; Architect, Principal of OMA, Netherlands)

● "However beautiful the strategy, you should occasionally look at the results." (Winston Churchill; Prime minister of England during World War Ⅱ)

● "Every child is an artist. The problem is how to remain an artist once he grows up." (Pablo Picaso; Spanish-born painter and co-founder of Cubism)

These phrases continue still affecting me.

Thursday, April 30, 2009

My 100 Standards (2/100):MBA Diploma

私はこの季節がやってくると、11年前のあの日を思い出す。
1998年5月苦労の末、M.B.A.という経営学修士号を受け取った。
今回のMy 100 Standardsは、アメリカの経営大学院(=ビジネススクール)卒業時の思い出の品、“Diploma”である。”Diploma”とは日本でいえば、卒業証書に当たる。

Diploma & Academic Regalia(卒業ガウンと帽子)



Diploma内部(私が修士号を受けたのは、ハワイの大学院だったので、ハワイ独特の花文字でデザインされている)


M.B.A.とういのは、経営の実践的プロフェッショナルを養成する、まさに経営者養成の陸軍士官学校のような場である。その場は、ケーススタディあり、プレゼンテーションあり、多様なディベートあり、数百冊に渡るブックリストありなどで、全く気が抜けないフィールドである。
しかし、その過酷な知的格闘の場であるからこそ、多国籍な人種との友情であったり、多様な価値観・宗教観・文化観の共有が成されるのかもしれない。言い換えれば、ビジネススクールは私にとって人生の空港だったと言えるのかもしれない。世界中の様々な場所から多国籍な人々が同じ時期に1つの空港に集まり、やがて様々な場所へと飛び立って行く。

だから、本日紹介した“M.B.A. Diploma”は人生のパスポートみたいなモノかな。
パスポートと表現するからには、修士号を受け取って終わるのではなく、そのパスポートを自身でブラッシュアップしていかなければならない。
だから最後にこの有名なフレーズで、今回のblogを終えよう。

“When you're finished changing, you're finished” by Benjamin Franklin
→「変わることをやめたとき、それは終わったということなのだ」by ベンジャミン・フランクリン

Wednesday, April 29, 2009

顔の不可能性に出会った

以前、ベルギー在住の現代Artistの友人から、人間の手を描く難しさということを聞いたことがある。

先日足を運んだ、「20世紀のはじまり ピカソとクレーの生きた時代展」(於兵庫県立美術館)では、手ではなく、顔を描くことの多様性、困難さに出会った感じがした。
画家でもあり、彫刻家でもあったアルベルト・ジャコメッテイは、「顔を描くのは実にむずかしい。風景や静物ならまだ何とかなる。しかし顔を描くことはほとんど不可能に思われる、それに成功した人は1人としていない」と言い切っている。

私はプロフェッショナルなアーテイストの視線というものが分からないが、考えてみると、顔を描こうと思えば、我々は例えば建物の表象を上手く枠の中に収めるというような単なる構図的配慮ではなく、その周囲の空間の変容そのものを描かなければならないということは理解できる。しかし、言葉にしてしまえば簡単に思えても、実際に他者に影響を与えるような、クリエイティブに顔を描くとなると、私にとっては不可能のように思えてしまう。


そして私は、今回の展覧会でそんな顔の不可能性に出会った。
今回のExhibitionは、「表現主義的傾向の展開」「キュビズム的傾向の展開」「シュルレアリスム的傾向の展開」「カディンスキーとクレーの展開」と4つの断章に分けられ、パブロ・ピカソパウル・クレー達が若く才気溢れる創作意欲を持っていた1900年代初頭から、脂が乗りある一定のポジションを確立していた1940年前後までの作品群が、私に圧倒的な存在感を見せつけた。

その中でも、「キュビズム的傾向の展開」の章で展示されていたピカソの「鏡の前の女」に惹き付けられた。
そこに描かれた女性の顔は、口の位置が正面と側面を繋ぐ蝶番として機能していたが、他の作品では口が正面像にあたる顔の隅に描き込まれたりしており、その対照的な作風で観る者の視線に動的風景を見せつける。
巨匠・ピカソでさえも、顔に対しては多様なアクセスを試み、顔を描くということへの飽くなき欲望が伝わってきた。


皆さんも、顔の不可能性、巨匠達の顔への欲望を、覗いてみてはいかがだろう。

Monday, April 27, 2009

意味としてのPandemic

とあるNewsでは、「とうとうやって来た」と表現した。
何がやって来たのか、それは地球規模で近い将来起こると予想されているインフルエンザの感染爆発=Pandemicである。

先週末からメキシコを中心として、アメリカ、カナダ、ニュージーランド、スペインなどで、ブタを媒介としたインフルエンザが人へと感染し、また一部では人から人への限定的感染が見え始めたというのだ。

Google Mapに見るブタインフルエンザの世界的広がり

しかし、私はこのNewsを聞いて少しの疑問を感じた。
確かPandemicは、鳥インフルエンザから発生する可能性が高いという報道が大部分を占めていたはずなのに、今回の報道を聞いていると、まるでブタインフルエンザが当初から感染爆発の根源であったかのような錯覚さえ覚える。
では、なぜそのような錯覚を私は感じるのか?

H1N1 Swine Flu Virus

以前読んだスーザン・ソンタグの著書・「隠喩としての病い」の中で書かれていたことを思い出した。
ソンタグ自身が癌患者だった経験から、癌という語が悪性で解決不可能な事態を指す比喩として用いられていることが、癌患者を苦しめているという内容であった。
これを今回の事象に当て嵌めると、鳥インフルエンザという語がパンデミックという未知の病原体のもたらす死の恐怖の比喩として置き換えられてしまい、今回のブタインフルエンザなど新たな事象が生じた場合、ジャーナリズムが少なからず思考停止状態を起こしてしまっているという感じがするのだ。
鳥インフルエンザという言葉が、記号的に一人歩きし、パンデミックの本質を見誤らせてしまうという懸念が浮かび上がってくる。

文明史的視点で見ると、古代文明以来、「ハンセン病」が最も長期間記号論的に支配的な病だったと考えられる。世界宗教と呼ばれるような宗教で、例えば「ヨブ記」では明示的ではないにせよ、何らかの形で、「ハンセン病」を「罪」や「苦」の象徴として捉えている。それ以外でも、中世文学では「ペスト」が支配的な意味の源泉となっている。

私達は今回のブタインフルエンザの事象について考える必要があるのは、「意味としての病」についてである。鳥にせよブタにせよ、動物を媒介して変異するであろうインフルエンザという言葉が、身体的な病としてだけではなく、宗教的・文学的な「意味」として機能し始めていることに我々は注視すべきである。
「意味としてのPandemic」には、個人レベルでも、国家レベルでも、危うさを秘めている。

Wednesday, April 22, 2009

1つの雑誌の終焉に思うこと

今日私が手にした1つの雑誌は、30年間という歴史に幕を閉じた。
その雑誌の名前は、「広告批評」。

広告批評最終号の巻頭言では、「広告の世界は、いま大きく変わろうとしています。が、広告がなくなることは決してありません。広告は、時代の映し絵というだけでじゃない、いい面も悪い面も含めて、人間そのものの映し絵でもあるからです。・・・・」このようなテクストで始めている。

最終号の表紙デザインは、実にミニマルにホワイト一色で、表紙のど真ん中に「30年間ありがとうございました。」と切り絵風の広告批評というタイトルだけという潔さである。まさに、立つ鳥跡を濁さずという感じだろうか。


私はこの雑誌の特集が結構好きで、書店で面白い特集が目に付くと購入し、楽しみながら触発されていた。
私自身この雑誌に思い入れがあるのは、ビジネス的にも、ブランド、クリエイティブ、デザイン、広告などのキーワードで括られる世界に属してきたことが関係しているかもしれない。

この雑誌が消滅することに意味はあるのだろうか?
今の時代、広告やクリエイティブというビジネス領域は、多様なメディアの元で表現される。TVCM、ラジオ、インターネット、紙媒体など、その表現領域は蜘蛛の巣(=Web)のようにグローバルに展開する。
広告批評社主の天野祐吉は、広告批評の30年というテクストの中で、「世間話のように、広告を語り合える雑誌を作りたいと思った。その視点は、専門家の目ではなく野次馬の目で、書き言葉より話し言葉で」と述べている。
広告などのコミュニケーション領域は、そのような柔らかい目線では捉えきれないくらい、多様に広がってしまったのではないだろうか。blog、SNS、ホームページなどのバーチャル・コミュニティの発展によって、個人が誰でも発信でき、批評できる環境が創造されてしまった。書評1つ取ってみても、本屋の店員がポップを立てる、またAmazonで読者がコメントを書くという感じになる。つまり批評という領域では、大文字の批評家や評論誌の存在意義が脆弱になりつつある。

このような大きな潮流の中で私が考えるのは、それでも広告批評のような雑誌や、マクロな意味での批評は必要なんじゃないかと思う。批評=Critiqueが脆弱な社会というモノは、共有する物語や言葉が衰弱している証拠だろうし、そんな世の中に私は面白みを感じない。それに、雑誌の「雑」という部分、要するに多彩なオピニオンが交錯し、批判し、喧嘩できる場がなくなることにこそ、私は危惧を覚える。

今回1つの雑誌の終焉に、私はこんなことを考えてしまった。

Friday, April 10, 2009

My 100 Standards (1/100):Charvetのクレリックシャツ

さて、私とモノとの100のストーリー。第1回目は、「Charvetのクレリックシャツ」との物語。

私がこのシャツの存在を知ったのは、ある書籍でフランスのドゴール大統領やアメリカのJ.F.ケネディ大統領が着ていたシャツがCharvetのシャツだと分かった時であろうか。そのシャツに宿った歴史的重みに、私は心を動かされた。
Charvetは世界で初めて注文シャツの専門店として1838年の創業以来、「Executiveのための品の良い趣味」を提案し続けるパリの老舗である。150年以上に渡って、そのハイ・クォリテイから先の両大統領をはじめ、イギリス王室やハリウッドスターといった世界の要人や著名人が「Charvet」の顧客として名を連ねている。シャルベも今ではトータルにアイテムを展開しているが、それら全てにシャツ創造のノウハウとセンスが活かされ、継続的高品質の職人気質が息づいている。


私が愛するCharvetのシャツの中でも、特にクレリックシャツが好きである。特に、ブルー・ストライプのこの写真のクレリックが、長年私のビジネス現場での活力となっている。このブルー・ストライプのクレリックは、もう3代目になる。初めて購入したのは、フランスへ旅した大学時代(今から20年以上前になる)に、パリの本店だった。ホントはオーダーしたかったのだが、時間的ゆとりもなく、プレタポルテで我慢した。しかし、初めてこの憧れのシャツに手を通した時、何とも言えない高揚感に襲われたことが昨日のように思い出される。

このシャツの魅力は、20年以上を経た今でも色褪せない。クレリックのダブルカフスなので、カフスリンクでも遊べるし、ネクタイの多様なデザインでも楽しめる。この写真では、ネイビーのHERMESの晴れ男タイ(大剣に太陽マーク、小剣にちっちゃな男性が喜んでるデザイン)と、ネイビーのカフスリンクを合わせている。しかし、重要な会議やプレゼンの時には、深紅のパワータイを付けて気持を高ぶらせたりもする。

私はこのホワイトの襟にブルーストライプのシャツを、今後も着続け、愛し続けるだろう。

Thursday, April 09, 2009

My 100 Standards (0/100)

それはある一冊の本を読み返して思い付いた。
私はこのblogを通じて、多様な事象に対する思考の断片を記してきた。
でもそれは殆どの場合、外発的なことであり、内発的なことには余り触れていない。


その書とは、フランスの詩人、文学者、シュルレアリストであるアンドレ・ブルトンの自伝的小説「ナジャ」。その実験的小説の冒頭、「私は誰か?これは結局、私が誰とつきあっているかを知りさえすればいい。自分は一体どんな人間なのか?」という問いかけで始まる。そして、「その人を知りたければ、その人が付き合っている親しい友人が誰なのかを知れば、1つやふたつは、その人の本性を垣間見れるだろう。少なくとも人としての種類は分かる」と続けていく。

そこで思ったのは、私と他者との関係性ではなく、モノとの関係性であった。
私は日常の中で、様々なモノと接しているが、その中には自身が長年愛用しているモノ、新たな出会いで好きになったモノ、など関係性も様々である。周りを見回すと、書籍、服、時計、靴、鞄、文房具、デジタル・ガジェット、アート作品、CD、など多彩なモノが溢れている。

そこで、私はそのモノ達との関係性を、100のストーリーで、今後定期的にこのblogで語っていきたい。
題して、「My 100 Standards」。
100のモノとの出会い、100のモノとの関係を語っていくこにより、「私」という人間の本性が少しでも理解していただけたら幸いである。
100のモノを語り尽くすというのはそんな簡単なことではないだろうが、モノと向き合って思考することで、その愛用品達の美しさも表現できたらと思う。

「ナジャ」の最後のテクストは、次のフレーズで締めくくられる。
「美は痙攣的なものだろう、それ以外にはないだろう」と。
100のモノには、100のストーリーと、100の美しさがあるはずだから。

Tuesday, April 07, 2009

風姿花伝的桜の鑑賞

先日7~8分咲きの桜を鑑賞するため、兵庫県西宮市の夙川公園へ出かけた。
まだ満開でなく、花散らしにはまだ遠い桜を眺めていると、随分前に読んだ世阿弥の「風姿花伝」が頭に浮かんだ。
世阿弥は言葉、所作、歌舞、物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を確立したのだが、その能を鑑賞する観客達に感動を与える力を「花」として表現した。世阿弥は自身が能を表現する中で、どんな花を思い描きながら演じたのであろう。やはり、それは桜ではなかったろうか。桜の満開をハレとして尊ぶだけでなく、散りゆく姿に儚さや無常観を見出してきた日本人の原風景がそこにあるはずだから。

さてその原風景を求めて、私は神戸から夙川公園へと、カメラのシャッターを押し続けた。

神戸自宅前の公園の大島桜


生田神社の桜



そして夙川公園のソメイヨシノへ




























皆さんは今年、どんな桜に出会いましたか?

Wednesday, April 01, 2009

Memory of March to New Normal of April

My memory of March 2009 is focused on doing WBC victory.
A piece of March Memory is in the following Photo:
Empire State BLDG celebrating Japanese baseball as No.1.


And now, April starts!!
In Japan, April is the month for new departure.
So, on the occasion of this new departure, I will discuss the keyword expressed “New Normal.”
I want to think about what in America is called the “New Normal” in Japan.
In general, The cocept of “New Normal” created by Roger McNamee is built through the following five points: 1) The power of Individual, 2) The diversification of the choices, 3) The importance of the decisions , 4) Technology & Globalization, and 5) Occupation.


Here, I want to think about what in America is called the “New Normal” in Japan.
For example, young Japanese consumers have turned their attention to local brands, which offer not because of price but for the uniqueness. Designers from the high-end and manufacturers known more for value are entering into arranged marriages outside of their social standing.
Comme de Garcon's highly successful collaboration with H&M raised awareness for the retailer because Ms. Rei Kawakubo is not your "normal" attractive brand designer.
In addition, two weeks ago,the announcement of Jil Sander's new partnership with Uniqlo performed both the designer and Mr. Tadashi Yanai.

Jil Sander & Uniqlo

The new world order means that collaborations are the new order where unlikely relationships will equal survival or growth. Perhaps, in Japan where the history of the brand collaborations is the deepest, such a strategy may prove whether an occasional exclusive product and PR are worth being more than it. What is interesting about the Jil Sander and Uniqlo partnership is that both pride themselves on high quality within their respective price category. Some of the early newsmaking collaborations often lacked in quality and a contemporary expression of “value”, which will be important in today's culture of “New Normal.”

Under our global economic crisis, we must focus more on the above viewpoints of “New Normal.”

Anyway, How was your April Fool's Day?