Friday, September 26, 2008

Google:10年の軌跡

今や我々が検索という言葉からすぐに連想されるのは、"Google"であろう。
検索=「ググル」とまで表現させた、その企業も創業10周年を迎えた。
Larry PageとSergey Brinがスタンフォード大学で出会って、検索サイトの巨人を構想中、私もアメリカの経営大学院の修士論文構築の最終段階に入っていたことを思うと、共時性を少し感じる。
二人の大学院生が創り上げた"Google"という高度に洗練されたGlobal Intelligence Business Modelは、世界の過去・現在・未来の情報を全て編集し、統合しようとしている。
その情報巨人の10年を纏めたスペシャル・サイトがアップされている。
皆さんも、Goole誕生から現在までを、自分の歴史と共に振り返ってみると、そのVelocityに驚きを覚えるのではないだろうか。



Google 10th Birthday

Monday, September 22, 2008

CINQUE CLASSICO:Art、Sound、&Fashionの饗宴(1)

ちょうど1週間前、神戸のダウンタウンで1つの宴が催された。
私にこのblogを書くキッカケを与えてくれた藤原オーナーが、神戸に創造したクラシコイタリア系ブティック「CINQUE CLASSICO」のリニューアルを祝う宴である。


この夜は、ファッション・ビジネスもその一角を占めるグローバル市場にとって、大変衝撃的な事件:リーマン・ショック(リーマン・ブラザーズ破綻による世界経済の動揺)という事象が、神戸という日本の1都市で開催されたRenewal Partyという華やかな舞台裏で起こっていたことも明記しておきたい。

このPartyに参加して考えたことがある。それは、ファッションの行方についてである。現在、グローバル経済の中でアパレル産業はLV Groupのようにどんどんコングロマリット化していき、デザイン、素材などのクリエイティブ要素が画一化していくのではないかという感覚に襲われることがある。そのような状況の中で、ファッションについて、語るべきことは残されているのか?ファッションなどが創造するトレンドは、今なお人々の深層心理を表象しているのか?また、我々がファッションに求める「装い」は、独自のアイデンティティを表現しうるのか?或いは、ファッションが理想の自分に近づくための手段として、今後も機能しうるのか?このような疑問符が頭を巡っていた。
CINQUE CLASSICOが提案するファッション形態は、これら私の疑問に対して、トレンド=High Brandが全てではなく、特にメンズ・ファッションに於いては、クラシコイタリアという伝統と革新の融合物の中に、新しい時代の扉を開くクリエイティブな発想があることを示してくれている。
今回のRenewal Partyを通して、CINQUE CLASSICOがそのことを我々に対して、高らかに宣言しているかのように感じた。

以下で、当日の模様を写真で振り返ってみよう。
写真は、Partyを待ちわびる空間から、PartyにおいてJammingしたJazz演奏という、静から動へのプロセス順に並べてみた。





















ここまで、当日の風景を写真で振り返ってみました。
Party当日、私がどんなコーディネートで臨んだかを、少しだけ触れておきます。

今回のコーディネートは、今季のトレンド・カラー「紫」を主体に組み立ててみた。
敢えて、クラシコイタリア・スタイルではなく、アンティークとも言える15年前に購入したGIANNI VERSACEのグレンチェック(実はその中に淡いパープルカラーが含まれている)Double-breastedジャケットに、これまた15年前に購入したパープルが主体のドレスシャツを着用。胸元には、CINQUE CLASSICOで購入した、Franco Jacassiのラベルピン(パープル・ストーン)を付け、チーフも淡い紫色をチョイス。更にパンツは、Levi's Fenomのブラックサテン、シューズはVISVIMのFBT。まさに、クラシコイタリアを脱構築したスタイルで臨んだわけである。

次回blogでは、今回触れていないArtとFashionの融合部分について書いてみたい。
ヒントは、この写真。

Tuesday, September 02, 2008

Creative + Logic = IDEOの新たなWeb戦略

私が世界の超一流といわれる企業の中でも常日頃からウオッチしている企業がある。
それが、IDEOである。IDEOに関しては、このblogでも紹介しているので、今回は深掘りせずにおく。
ではなぜ今回、IDEOについてまた書こうとしているのか。それは、この世界にも類を見ないDesign Consulting Firmが自社サイトで、新たな表現の地平を我々に見せてくれたからである。


Webというモノに余りなれていない人が、このIDEOのサイトを見ると、「うん?」これはどういう風に扱うのかなと思われる人もいるかもしれない。しかし、どこでもいいからクリックしてみて欲しい。そこから先は実に明確に、分かり易く進めていくことができると思う。このサイトが指し示す方向は、1つの企業や組織がこれだけ多くの実績を積み重ねていますよ、ということを表現し、コミュニケートして行くには面白い発想かもしれない。私はWebの作り手ではないので一概には言えないが、こういうサイトを創造するには手間暇がかかりそうという印象だ。
ちなみに、このIDEOに以前在籍していた著名なプロダクト・デザイナー、深澤直人氏の作品もこのサイトでは紹介されていることを明記しておこう。

Monday, September 01, 2008

総理よ、ふざけるな!!


今、福田康夫現内閣総理大臣の辞任演説を聴きながら、このblogを書いている。
約一年前に、安倍前総理大臣が困難な状況を道半ばで投げ出し、福田首相がその後を継いだ。
それから約一年後に、また同じことを繰り返そうとしているこの事象を目の当たりにすると、「ふざけるな」としか言いようがない。
私は一年前にもこのblogで、安倍前総理の突然の辞任劇を受けて、最高責任者の身の処し方について述べさせてもらった。なので、今回ここで同じようなことを述べる気にもならない。
私が声を大にして言いたいのは、日本国家の舵取り、マネジメントを行うという事柄の影響力に関してもっと真摯に取り組んでもらいたいと言うことだ。「国民に迷惑をかける」とか、「今の時期がベストと思った」などの稚拙な言い訳だけで済ませてしまう、国家の最高責任者をほとほと情けなく感じてしまう。
もう一度言っておこう、「ふざけるな」と。

Thursday, August 07, 2008

Web Designの美しさ

私はWeb Siteの色や動きなどのデザインに関しては素人である。
その素人の目から見ても、美しいと感じるWebというものがこの世には存在する。
それが、「FONTPARK 2.0 | MORISAWA」のサイトである。
このサイトはWeb Design業界の第一人者・中村勇吾氏(以下敬称略)が代表のtha ltdが手がけたモノである。私はこの中村勇吾なる人物を当初、私の友人である敏腕Web Producer:Mr. BYに教えてもらうまで知らなかった。中村勇吾は今年4月に放送された「プロフェッショナル・仕事の流儀」でも取り上げられ、彼のデジタルな匠の世界を垣間見ることができた。

その彼が構築した今回ご紹介するモリサワのサイトは先にも述べたように、素人の私から見ても美しく、楽しい。このサイトでは、モリサワフォントで作られた平仮名を組み合わせてイラストを作成する事ができる。歌舞伎役者の顔、平安時代の女性の顔、などが、モリサワフォントで創造されていく。その動き、ミニマルな表現方法、どれをとっても秀逸なんじゃないかな。


ずっとWebというものに無機質な感覚を持っている私から見ても、今回の中村が作り上げたサイトは、私がWebに持つ感覚に対する発想転換が図られているように感じる。まさに、現時点でのInteractive的究極形かもしれない。私自身、このサイトでいかにスタイリッシュな絵が描けるか思案中だ。

その中村勇吾のデザイン思考を実際に体験できる企画展が始まることが私のアンテナに飛び込んできた。


大阪と今日で同時開催される「NOW UPDATING… THA/中村勇吾のインタラクティブデザイン<2008年8月5日(火)~8月28日(木)>」という企画展である。この企画展は、関西では大阪のdddギャラリー、関東は銀座のギンザ・グラフィック・ギャラリーで行われるようだ。

さあ、私もScheduleの空きを見つけ、出かけてみよう。

Sunday, August 03, 2008

明日を読み解く視点を養うには

先の読めない時代=不確実な時代といわれて、相当時間が経つ。経済、政治、社会、文化など、どの領域を見ても先を見通すことはかなり困難な状況である。
特に私が属するビジネス界では、不確実な傾向は拡大する一方である。
こんな先の見えない環境に少しでも明かりを灯す方法というモノが実は存在する。
それはシナリオ・プランニングという技法である。
この技法を実際のビジネス環境で旺盛に利用して、数々の難局を打破してきた企業がある。その企業とは、ロイヤル・ダッチ/シェル。皆さんも周知のように、この企業は石油メジャーの1つであるが、この企業の提供価値は石油という商品やそれに付随するサービスではなく、シナリオ・プランニングという技法を独自に開発し、ビジネス現場で有効利用してきたことにあると、私は考える。
シェルはその技法で、第一次、第二次石油ショック、その後の石油価格の暴落の可能性を推測し、さらにはゴルバチョフ登場以前にソビエト連邦の崩壊を予見して、数々のビジネス危機をビジネス・チャンスに変えてきた。
シェルのシナリオ・プラニング・チームを長年率いてきた人物、ピーター・シュワルツが著した「シナリオ・プラニングの技法」にそのプロセスは詳しく説明されているので、興味のある方は是非読んでみて欲しい。


私が今回このシナリオ・プラニングをテーマに選んだのは、アメリカのサブプライムローン問題に端を発する世界市場の混乱、石油市場における投機的動きによる原油価格高騰、など不確実な状況が今年になってより鮮明になってきたから。このような時代には、明日を読み解く目というモノ=シナリオ構築力を国家、企業、個人のそれぞれが持たねばならい。
このように考えているとき、上述したロイヤルダッチシェル社が2050年までのエネルギーに関するシナリオを作成したことを知った。自ら石油なしに存在し得ないはずの会社が、上記したように実は相当未来に渡る調査研究、シナリオ作成をしていて、それに併せて会社の有り様を実は変化させている。このシナリオを目にしたとき、日本の企業はこういう努力をしているだろうかと、私は不安を感じた。このシェルのコア・コンピタンスによって、石油の時代が終わっても、シェルが世界のエネルギー市場をコントロールしているのではないかと思わせる。

今回のシェル・シナリオは、シェル社のサイトからダウンロードして読むことができる。


Shell energy scenarios to 2050


この報告書の中には2つのシナリオが描かれている。第1のシナリオが良くてこのぐらいという方向で名前が"Blueprints"。Blueprints(早期に国際的な枠組みで対策をした場合)では、2050年までに世界レベルで国家・地方自治体の両方で環境規制が強化され、エネルギー効率の改善や電気自動車の普及、国際レベルでの排出権取引の実施などを想定。第2のシナリオが、良くなくてこのぐらいという方向(つまり現状の延長)で名前が"Scramble"。Blueprints=最良のシナリオではウェブを介した善意の細かな動きが前向きに動くことが前提とされている。"Blueprints"のシナリオの方向性で進んでもらいたいと私も考えるが、どうも現在のグローバルな動きを見ていると"Scramble"シナリオで進みそうな予感が強い。
いずれにしても、シェルは定期的にこうしたシナリオ構築を行い、その中でシェル自体は何をすべきかを考えている。今の我々には求められているのは、こんな明日を読み解く思考を身に付けることなんじゃないかな。

Saturday, July 26, 2008

積読状況からの脱却

購入したまま読んでいない書籍が増えてきた。



う~~ん、お盆休みにまとめて読もうか。

Friday, July 25, 2008

On Late Style: Farewell to My Dad

私の父親が亡くなって、2週間が経過した。昨年から父親は入退院を繰り返していたのだが、今年5月中旬病状が悪化し、7月11日その充実した生涯を閉じた。
このblogが5月から宙吊り状態になっていたのは、そういう理由からである。

特にこの2ヶ月間、夜間の病院で私は父の傍らで多く過ごした。付き添いをしながら、父と過ごして来た42年間(その間私は、アメリカ&東京で暮らしたいたこともあり、正確な数字ではない)を想い起こしながら、原書でも翻訳本でも読んだある一冊の書を読み返してみた。


書名は“On Late Style - Music and Literature against the Grain -”(邦題は、「晩年のスタイル」)。この書は、このblogのタイトル“Think-Write”を示唆した批評家であり、思想家であった、故エドワード・サイードの著作である。彼は2003年9月に亡くなっていて、この著作はその死後に出版されたものである。彼の絶筆といっても良いこの書は、彼の夫人や友人達が、サイードが教授職にあったコロンビア大学などで行った作家や音楽家やその他芸術家達の「晩年の作品」、「晩年のスタイル」などについての講義を中心に纏めたものである。

この著作の中核は、晩年性(Lateness)についての議論によって成り立っている。このことを父に迫り来る「死」という事象と対比させて病室で再読していたので、以前読んだときより一層そのエクリチュールは私の心にズシッときた。サイードのこの著作は、「死は私たちに一日たりとも猶予をくれなかった」とサミュエル・ベケットが陰惨で錯綜したイロニーを伴った書き方をその論文「プルースト」の中で展開しているという部分から始まる。そこから考えられるのは、死は到来する時を告げないということと、死は我々が多忙なときに唐突に訪れるということだ。しかし、私の父親のように死は時折、私たちを待ってくれることもある(言い換えれば、死の準備の時間を当事者とその家族に与えてくれる)。このようになってくると、「死」へ向けた時間の質がちょうど光の具合のように変化すると、サイードの書は表現している。つまり、「現在が、翳りを帯びるようになる。現在以外の時間 - 輝きを取り戻すか後退してしまう過去、新たに計り知れぬものとなった未来、時間を越えた想像不可能な時間 -に影響されて。そのような瞬間、わたしたちは晩年が特別な意味を帯びる状況に遭遇する」ような状態=我が父親の死への道程こそが、晩年性(Lateness)そのものである。

では、父親のLatenessとそのスタイルとは何であったのか。サイードの著書が、多方面の分野を、例えば音楽(オペラなど)、文学(小説、詩、エッセイ)、パフォーマンス芸術(演劇と映画)を自在に横断しつつ、そこに個人史、社会史、文化史、そして政治史の問題とのシンクロを見て取れる優れた文化論・芸術論として完結している(大江健三郎談)ように、私の父の人生もまた多様な彩りに満ちていたと確信している。
我が父親の「晩年のスタイル」を形成した様々な事象にここで光を当ててみたい。

● 父は世界を見た: 私がアメリカ大学院留学時代、親しくしていた教授と父親に関しての話をする機会があった。その際、その教授は父がビジネスでほぼ全世界に足を運んでいると私から聞くと、“Your Father has viewed the World”(あなたのお父さんは、世界を見たんだね)という表現をした。ここで言う「世界を見る」というのは、自分自身の固有の文化背景を離れて、広く様々な風物、多様な人々に接するという意味の英語表現である。私も弟も、この父親のDNAを受け継いだかのようにアメリカという多様な文化、人種、宗教などが融合した環境でのアカデミックな場所に身を置いた。

● 父は洒落者であった: 我が父は昭和初期の生まれにも関わらず、実にファッションやそのスタイルにこだわりを持った人だった。特にビジネス・シーンにおいて、スーツはその殆どをオーダーで誂え、ブルー系で揃えられ(まるでアルマーニのように)といった感じ。小物にも気を配り、ダブルカフスシャツのために多くのカフスリングを持ち、ネクタイはエルメスなど一見華やかな中にもシックなイメージが漂うものを好んで付け、加えてチーフは必ず胸元に入れていた。更に、父は若いときから帽子(中折れ帽)やサングラス類もよく身に付けていたことが、古い写真の中から見て取れる。このように洒落っ気たっぷりな父親のスタイルに私も影響を受けたのか、私自身ビジネスであれ、プライベートであれ、ファッションに気を配るようになってしまった。

● 父はプレーヤーとしてサッカーを愛した: 父親は、進学の際も、就職の際も、サッカーができる場所を選択したそうだ。父の日ごろからの口癖は、「世が世なら、俺はJリーガーだ」だった。まあ、現代サッカーが戦略・戦術を駆使した体系的なものとなっていることを考えると、父の時代とは全く違った競技になっていると言えるかもしれない。しかし、父の戦歴は華麗なもので、天皇杯や国体にもキャプテンとして参戦しているのだから、あながち父親の言は間違っていないのだろう。

● 父は音楽を愛した: 葬儀の中でも、父が病室で好んで聴いていた曲を流し、一種音楽葬の装いも見せていた。父は、JAZZ、ハワイアン、Classicなど結構多彩なジャンルの音楽を聴いていた。その中でも、ハリー・ベラフォンテを特に好んで聴いていたように思う。

●  父はダンスを愛した: 私は見たことがないのだが、父と母がHonoluluへ旅行した時、とあるホテルのバンドが入っているバーで突如二人が踊り始めたということを弟から聞いたことがある。父の学生時代は、ダンパ(ダンス・パーティー)が大流行りで、多くのステップをマスターしていたみたい。

●  父は阪神タイガースを溺愛した: 私が生まれる前から、筋金入りの虎キチだった父親は、私が小学生時代によく甲子園球場へ連れて行ってくれた。当時は、巨人全盛時代(あのV9時代だ)で長嶋・王がおり、阪神サイドは江夏・田淵がいた。私はその大きな器の甲子園球場の緑の芝が、カクテル光線に照らし出されている風景を、今でもよく思い出す。阪神タイガースというチームを私自身も40年以上応援し続けているのは、まさに父親の影響と断言できる。父は生前、阪神の優勝を5回も見ている。特に、1964年(私が生まれる1年前)には、会社帰りに甲子園へ直行し、その優勝の瞬間を見たそうだ。1985年の阪神日本一の年には、夫婦で日本シリーズを甲子園へ観戦に行っていた。このように、父のスタイルに大きな影響を与えた阪神タイガースが、今年も既にマジック点灯、そして優勝へと加速している。今年のタイガース優勝を父に見せてあげられなかったことは少し残念かな。

もっと父親について語るべき晩年のスタイルを形成した要素は多くあると思う。しかしここに記載した事象は、私が喪主を務めた父の葬儀の中で述べた挨拶にもリンクされることなので、敢えて上記の事象に言及した。
いずれにしても、私達残された家族は父が亡くなった次の日から、「新たに計り知れぬものとなった未来」へ向けて一歩を踏み出し始めた。ここで、今は亡き父に対し宣言しておこう。私もまた、あなたのように充実した生涯を終えるためのスタイルをこれから創造し続けていくことを。

このblogを読んでくれている方の中にも、父親の病状を大変心配していただいた方々が多々おられる。最後に、その人々に向けてお礼を申し上げておきたい。本当に有難うございました、心から感謝申し上げます。そして、私自身の父に対する追悼私記ともいえるこの文章を、今は亡き父親と私の家族に対して捧げたい。

Thursday, May 15, 2008

Kojin Karatani at Stanford Univ.(vol. 1)

Title: Beyond the Trinity of Capital, Nation, and State



Karatani's English is so-so; however, his parole and thinking concept lead to critical space!!

Wednesday, May 14, 2008

Englishをものにしたい人々への伝言

最近立て続けに、「英語を自分のものにしたいんですが、どうすれば良いでしょうか?」という問いかけを数人の人から受けた。
まあ、私が留学をしていた経験があり、一般の日本人よりは英語と深く接してきたのであろうという推測から、投げかけられた質問だとは思うのですが。

これまでも、同様の質問は10年前にアメリカ大学院留学を無事終えて、日本へ戻ってから何回もされたように感じる。
その度に答えていたのが、英語を話したり、聞いたり、書いたりしたいのであれば、日本の英語教育で叩き込まれてきた文法や構文などを掘り下げるのではなく、1つでも多くのVocabulary = 語彙の習得に努めるべきだと、いうことである。もちろん、文法や構文も大事なのだが、語彙力がないと英語をマスターできるはずがない。以前アメリカで教授から聞いたことがあるのだが、日本人を含めたアジア系の学生の語彙力は、ネイティブ・スピーカーの小学生レベルと聞いて、愕然としたことを憶えている。

そんなことを考えていた時見つけたのが、語彙力アップも含めて英語の勉強に使える「自己啓発のための26の言葉: A to Z」。

Tuesday, May 13, 2008

バーチャルな事象あれこれ・Playing

前回エントリーの「バーチャルな事象」の続きというか、補足というか、1つの気持ち良いサイトをご紹介!!


I spent 5 more minutes playing on Color Flip!!
たまには、ボケーっと、こういうサイトで遊んでみるのもありかな。

Monday, May 05, 2008

4月の断片(その4):Designの終焉!?

黄金週間も後残すとこ1日になりましたね。



私は昨日(5月4日)には、建築家・隈研吾氏の「負ける建築の思想と実践」という講演を聴いたりして、クリエイティブ思考を活性化させる動きを休みの間も継続しております。

さて、このblogでもクリエイティブな事象に関して数多く触れてきました。
4月の始めに私の耳に入ってきたショックな事柄は、私が今までリスペクトしていた1人で、建築、インテリア、プロダクトなどの総合的クリエイターが引退するというものであった。
そのクリエイターとは、フィリップ・スタルクその人である。


私はこのニュースを聞いたとき、デザイン氾濫時代の終焉を予感した。スタルク自身のデザインは、建築物からステーショナリーまで、この世に存在するデザインできるモノ全てに彼の視線は降り注がれているように思えた。私自身も、彼がデザインしたEyewearやステーショナリーなどを幾つか愛用している。
世界をデザインするかのように活発に活動していたその彼が、2年以内にクリエイティブな現場をリタイアすると、3月27日付けの独週刊紙「ツァイト(Die Zeit)」のインタビューで表明したのだ。

http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2370831/2782336

デザインの仕事に嫌気が差したスタルクは、「私がデザインしたもの全ては不必要だった。2年以内には確実にリタイアし、何か他のことをやりたい。まだそれが何かはわからないけど。自分を表現する別の手段を見つけたい。デザインとは、忌むべき表現形式だ」とコメントした。
また、「今後デザイナーはいなくなるだろう。将来のデザイナーは、パーソナルコーチや、ジムのトレーナー、ダイエットコンサルタントになるんだよ」とも述べている。
スタルクが語っている、「パーソナルコーチや、ジムのトレーナー・・・」のテキストを読むと、彼の興味が身体的な問題を解決するスキルに焦点が当てられていると推測できる。つまり、彼の関心事は脳的な部分から肉体的部分へと移行しているかのようだ。

デザインとかクリエイティブ・コミュニケーションは、プロダクトなどのモノや仕組みを介して広く、時間軸や空間軸を軽やかに超克して、不特定の誰かにコミットする喜びがある。しかし反面、モノや仕組みを介して、間接的にしかコミットできないという限定性も存在する。
世界視線を持ったクリエイティブスターであるフィリップ・スタルクには、この限界部分が誰よりも明確に彼自身の視線の彼方に見えているのかもしれない。
いかにデザインが間接的で、そのコミュニケーションに限界があったとしても、スタルクのような人物にはもう少しクリエイティブな現場に立ち止まっていて欲しい。

Friday, May 02, 2008

4月の断片(その3):Books

4月も多忙な中、通勤電車の中、カフェ、ホスピタルなど様々な空間で暇を見つけては読書に興じていた。
4月の1ヶ月間で読んだ量はいつもの月より若干少なめの12~3冊程度だった。
それでも、私の思考を刺激する良書に色々出会った。

その中の幾つかを紹介してみよう。

まずは、



紺野 登・著「知識デザイン企業―ART COMPANY」
この書は、Apple社のiPodをはじめとする具体的な先進的企業のサービスやプロダクト事例と、多様な領域の理論とを接続する著者の深遠な知識で、昨今のBuzz Wordとなっている「イノベーション」や「クリエイティブ」を巡る諸概念を一気にマッピングしてくれる良書。

お次は、



吉本隆明・著「日本語のゆくえ」
久しぶりに、吉本隆明の著作を読んだ。私が高校生の頃、初めて彼の著作を手にしたのだが、その当時と変わらぬ彼の言語に対する探求心が衰えていないことに少し感銘を覚えつつ読み進めた。この著作は、吉本自身の母校でもある東京工業大学での集中講義「芸術言語論」をベースとして構築されている。彼がこの著作の冒頭部分で述べているコミュニケートするために言葉を発するのではない部分の言語=ディスコミュニケーションの言語を理論化していくプロセスに大変興味を持った。日本語がどんどん記号化していく現在状況で、少し立ち止まって日本語の持つ本質的問題に向き合うのも面白いかも。

3冊目は、



菊池成孔・著『服は何故音楽を必要とするのか?―「ウォーキング・ミュージック」という存在しないジャンルに召還された音楽達について』
この書を読んだときの印象としては、文字が目に入るより、私の頭にファッションと音楽が頭の中を駆け巡ったと表現するのが良いかもしれない。この著作は、菊池自身が雑誌「Fashion News」に連載していたモノを纏めたのだが、雑誌に連載されていたときより、ファッションショーと音楽という関係性をより鮮明化した感じを受けた。
菊池成孔は、音楽家でもあり、文筆家でもあり、と多様な表情を見せる人物だが、今回の書は彼のその多彩性を先鋭化したということでは、実に面白い作品だと思う。

最後はあの名著、



トゥルーマン・カポーティ・著、村上春樹・訳「ティファニーで朝食を」
これは皆さんもよくご存じの作品だと思う。
私もこの作品は、高校生時代旧訳で一度読んでいるし、原書も読了済み。
では、何故今回もう一度この作品を手に取ったのか。それはもちろん、私がその新作が出れば必ず読んでいる村上春樹が翻訳し直したから。久しぶりに読む"Breakfast at Tiffany's"が、村上の訳で新たな地平を見せてくれたことに驚きを覚えた。やはり、翻訳という作業は、その訳者の意志や思考によって、アプローチの仕方が違うのだということを考えさせられた。旧訳も良かったが、今回の村上バージョンの新訳でますますこの作品が好きになった。

4月の断片は、明日もまだまだ続く。

Thursday, May 01, 2008

4月の断片(その2): BIZ

早いもので、今日から5月。
4月の断片の続きを今日も書いていこう。

本日は、今後皆さんのBusinessシーンでも話題になるかもしれないキーワードについてご紹介!!


私が以前から購読している"Harvard Business Review"では、この時期パワーコンセプトなる特集を組む。時代の一歩先を行くアイデア・リストを、Harvard大学の教授やビジネス・インフルエンサー達が「ブレークスルーの種」として纏めている。2008年のパワーコンセプト20+1は、私的に感じ取ったコア・ワードは「ジェネレーションY」と「メタバース」かな。
つまり、増殖し続けるバーチャル・ワールドの中で、先端の技術をいち早く身につけた若い世代=ジェネレーションYにより、多様なバーチャル作法がビジネスの世界に持ち込まれています。それらの意図の善悪を問わず、思いも寄らないサービスの創造を実現させている。
SNSやMMO(多人数同時参加型オンライン)ゲームなども含む斬新なビジネスストラクチャーやコラボレーション技術の隆盛、新たな業績評価指標、そしてリアルとバーチャルが融合したAR(Alternate Reality: 代替現実)空間でのオペレーションや顧客サービスなどはさらに、相互統治されたメタバースを生み出し始めている。

このように複雑怪奇に蠢くバーチャル世界を読み解くのにも役立つ、2008年アイデア集合知は以下の通りです。

1) P2P経済の到来 → Here Comes the P2P Economy
2) ジェネレーションYの仕事感 → Task, Not Time: Profile of a Gen Y job
3) 医師に学ぶ思考プロセスの矯正法 → A Doctor's Rx for CEO Decision Makers
4) 反対勢力を平和的に退ける法 → Understanding Opposition
5) 未来の取締役会の姿 → The Board Meeting of the Future
6) 正直者が不正を働く理由 → How Honest People Cheat
7) 究極のうそ発見器 → Lies, Damn Lies, and Lie Detectors
8) サイバー犯罪支援会社の暗躍 → The Cybercrime Service Economy
9) 市民発の公共サービス改革 → Sick Transit Glolia
10) ゲーマーは理想の次世代人材 → The Gamer Disposition
11) ゲームで現実の問題を解決する → Making Alternate Reality the New Business Reality
12) メタバース → The Metaverse: TV of the Future?
13) 感情表現豊かなアバターの登場 → Giving Avatars Emote Control
14) メタデータが拓く新世界 → Happy Metadata Trails
15) 「口実の道具」としてのケータイ → My Blackberry Ate My Accountability
16) カメの甲羅に理想の都市を見る → On the back of the Turtle, I See a City
17) ロビー活動がCSRを強化する → Socially Responsible Lobbying
18) 中国の新興都市が次なる成長源 → China's Unstopped Second Cities
19) イスラム金融が世界を変える → Islamic Finance: The New Global Player
20) 問題解決の正しい選択法 → What Good Are Experts?
+1) 続く傾向、続かない傾向 → Sustainable and Unsustainable Trends

私は2)、5)、11)、12)、16)、20)のアイデア・リストを大変興味深く読んだ。ただし、今回のパワーコンセプトは例年にない力作揃いで、今後のビジネス現場で思索するときに役立つソースが満載です。ぜひ、一度手にとって、皆さんが興味を持った項目をパラパラと眺めてください。もしかしたら、あなたのヒラメキや発想の手助けになるかもしれませんよ。

4月の断片は明日へ続く。。。

Wednesday, April 30, 2008

4月の断片(その1): Music

4月も今日で終わり。なんという時間軸の短さか。
このblogも翻ってみると、今月は一度も更新していない。
仕事とプライベートの忙しさにかまけ、またも更新を怠ってしまった。
このblogを淡い期待感で覗いてくれている方には、申し訳ないことをしてしまいました。

こんな感じですので、今日から数回に渡って、4月に私がビジネスやプライベートの各シーンで感じ取った物事の断片を紹介してみたい。

まずは、IDF(INO hidefumi(フェンダー・ローズ)、小島大介a.k.a.DSK(Gu./PORT OF NOTES)、藤原ヒロシ(Vo./Gu.)によるアコースティック・セッション・バンドの奏でる、懐かしいMellow Soundからどうぞ。


私は最近、洋の東西を問わず、Mellowなサウンドを奏でるアーティストの音楽を好んで聴いている。自分の頭で思索しているとき、一番フィットするのがユル~~イ&まろやかな感じのサウンドが心地よい。

お気に入りのアルバム群は、













こんな感じ。

続きはまた明日!!

Monday, March 31, 2008

brand論再考: セミナー、ブランド進化、そしてコムデギャルソン



今回のテーマは、"brand論再考"としてみた。以前このブログで、ブランドに関しては結構詳しく述べたつもりでいるので、今回は最近私が出席したブランド戦略セミナー、そしてComme des Garçonsから届いたフライヤーを題材にブランド進化について論じてみたい。

先々週になるが、大阪で開催されたブランド戦略セミナーに参加した。このセミナー、毎年1回イングランドのブランドコンサル企業が主催して行われるものだ。
今回のセミナーで興味を持ったのは、企業ブランド進化の過程を、あの「種の起源」を著したチャールズ・ダーウィンの進化論にシンクロさせて議論をしていた部分。
ダーウィンは進化論の中で、動・植物の進化の過程には時間軸に沿って大進化と小進化があり、その進化速度や進化度合は種によってまちまちであるが、ゴールはその種が環境の変化などに適応した形で継続的に生存できるかどうかが重要としている。確かに企業も同じで、持続的な企業成長を目指すのであれば、企業進化とブランドの確立ということが大変重要なファクターとなってくる。
企業ブランドの確立というものには、顧客(一般消費者)、社会、株主、そこで働く社員など、一般的にステークホルダーといわれる存在が大変大きな影響力を与えるため、単純に動・植物の進化と、企業ブランドの進化を同列に並べて議論するのは無理があると思われるかもしれない。しかし、今回のセミナーでの論点は、そのような外的要因を全て取り去った形での「進化」というファクターに視点を置いて考えた部分に、面白さを感じた訳。

こんなことをセミナー後も、私の頭の中で考えを巡らせていた時、ギャルソンから最近私の手元に届いたフライヤーのことを思い出した。
コム・デ・ギャルソン(Comme des Garçons 、日本語で、「少年のように」の意味)は日本のファッションデザイナー・川久保玲が1969年に設立したプレタポルテ(高級既製服)ブランド。
ギャルソンは約40年間、上で述べたようなブランド進化を時には大きく、時には小さく、その時代時代に合わせて成し遂げてきたのではないだろうか。



そんなギャルソンの広報活動が最近過激に攻撃的で、Hip(かっこいい)だ。新たなブランド進化を、世界に向けて宣言しているかのようでもある。



フライヤーの写真を見てもらっても分かるように、この度肝を抜かれる前代未聞の演出にFashionを生業にすることへの凄みを感じた。私が親しくさせてもらっている、「百花堂」のクリエイティブ・ディレクターの方にも、物づくりに対する同様の凄みを感じる。



いずれにしても、送られてきたフライヤーはアート作品としても大変素晴らしい。本当に、アート写真集を見ている感じで魅了された。



このフライヤーを眺めていると、ArtistのチョイスにもComme des Garçonsの世界が明確に現れている。
しかし、そんなArtistそのものに看板を預けたりはしない。ArtistをComme des Garçonsカラーに仕立て上げてこそComme des Garçonsたる所以なのである。



優れたクリエイティブの分業がリンクし、融合されて初めてComme des Garçonsになるのである。
ここが世界に類を見ないComme des Garçonsというブランドの価値なのではないだろうか。



今更でもないが、現代美術をFashion=流行に取り込んでしまう手法こそ、Fashionそのものでもあるといえる。しかし、これも先頭を走っているポジショニングにあるブランドでなければ相当陳腐に陥ってしまう。そのギリギリなエッジの所を保持するための日々の鍛錬が、なかなか他者には真似のできない部分であろう。時代にあがなう過激さを失って、物づくりに固執するのではもうそれはFashion=流行とは呼べないのではないだろうか。



今回のセミナーやComme des Garçonsの試みを見ていて感じるのは、"brand"維持および向上への飽くなき挑戦である。"brand"とは、企業であれ、モノであれ、その価値を維持し続けるには相応の覚悟=準備が必要で、戦略や戦術も重要だが、最終的にはそのブランドが持つ力を命がけの跳躍で、どこまでその価値をストレッチできるかどうかにかかっているのではないか、ということを再認識させられた。

Friday, March 07, 2008

話すことの限定性

今回のブログでは、圧縮された時間から見えてくるエッセンス、限定された時間で話すということについて書いてみたい。

私が過去属していたビジネス・ソリューションといわれる分野では、多忙な人間=社長などのトップ・マネジメントに、限られた時間内で、自分達が伝えたいことをいかに伝えるかということの試行錯誤が様々な手法(エレベーター・トークなど)を創造した。しかし、それらの手法をいかに駆使しても、あのApple 社の暫定CEO・Steave Jobsのようなプレゼンテーションの達人の領域にどうしても到達できない。何故か。勿論持って生まれたものだから仕方が無いといってしまえば、議論はそこで終わってしまう。Jobsのプレゼンスタイルを見ていると、1つひとつの新しいプロダクトやサービスに関しては、実に簡潔に、そして短時間で自分の言いたいことを述べていることが分かる。「1つのプレゼンテーション=1つのプロダクトやサービス」が複合的にリンクされることで、彼自身の1時間以上におよぶトータルプレゼンは、聞き手に優しく(シンプルに)構成されていると考えるのが妥当だ。つまり、圧縮された時間をパズルのように組み合わせて、Jobsは巧みに聴衆を自分のペースへ引き込んでいくのである。それはビジネスプレゼンに限られたことではなく、彼のスピーチにもその「話すことの限定性」から醸成される力を感じる。特に有名な彼のスピーチ:2005年サマータイムのStanford Univ.での卒業式でのものなどは世界を駆け巡った。その中でも私が好きなな一説は、"Your Time is limited, so don’t waste it living someone else’s life."(by Steve Jobs)これを簡単に訳すと、「君たちの時間は限られている。その時間を、他の誰かの人生を生きることで無駄遣いしてはいけない」。彼のこのような切れ味の鋭い、ポジティブな言説は、聴く者を飽きさせず、その場に一瞬の清涼感さえ漂わせる。


では時間を圧縮すると、表現したいことの核心が見えてくるのか?これに答えてくれる「場」がアメリカにはある。アメリカのカリフォルニア州モントレーで年1回、学術、エンターテイメント、デザインなど多様な分野の人物が講演を行なう会を主催しているグループ、TEDのことを皆さんはご存知だろうか?ここのウェブサイトを見て貰えば分かるのだが、各界の著名人が10分程度のプレゼンテーションで、最新の研究や究極の本質論のエッセンスを濃密な時間の中で説明するスタイルをプレゼンテーターに要求していることが分かるだろう。英語初心者で無い私でも、大変早口な英語のため、細部まで理解するのはなかなか骨が折れる。しかしスピーカーが極限の時間で説明しようと試みることから、何が大切か=スピーカーのエッセンスがストレートに聴衆の耳に入ってくる。10分という時間でどこまで説明できるか、この火事場の馬鹿力のようなトークの迫力に、私のこのブログのメインテーマ"Think-Write"の対の言葉である"Think-Talk"に相通じるコミュニケーションの持つ凄みを感じ取った。凄みと表現したが、話すことの影響力と言い換えても良いかもしれない。

私は仕事上過去から現在に至るまで、プレゼンテーション、シンポジウムや様々なビジネス・ミーティングの場に話し手としても、聞き手としても、参加することが多くある。自分の話しっぷりも含めての反省なのだが、議論などに熱中すると話が長くなる傾向にある。これでは、受け手のモチベーションもどんどん下がるし、折角意義ある議論をしていても、結局打ち合わせが終わると頭に残っていないという事態に陥る。もちろん、全てのプレゼンや、会議での話を10分で纏めるべきといっているわけではない。限定された時間の中にこそ、話し手の伝えるべき核心が網羅され、受け手に伝わり易くなるのではないかという意味。

今までの議論を踏まえて、今回紹介するNYのMoMA(現代美術館)のキュレーター・Paola AntonelliのTED Talksを聞いてみると、その核心部分が少しだけ明確になってくる。彼女はキュレーターという職業柄、現代アートという他者に伝えることが困難に思われる作品でも、短時間で簡潔に伝える術を心得ている。今回ご紹介する彼女のTED Talksでも現代アートの様々な作品を、小気味良く聴衆に伝えている。彼女のプレゼンに耳を傾けると、以前何かの本に書いてあった現代アートにおけるデザインというのは機能性(Functionality)と言霊(Message)の融合であるというセンテンスが想い起こされる。いかに難解な作品であっても、Creative(=創造的で)でRemarkable(=他者に話したくなる、話す価値がある)な作品エッセンスを言葉化することで、コンパクトで誰にでも分かり易い表現が創造される。この彼女のスタイルにこそ、様々な職種の人々が自分「ならでは」の表現を作り出す = Creativityを磨くためのヒントが多く隠されているように感じるのだ。皆さんも彼女の言葉に耳を傾けてみてはどうだろう。

Thursday, February 28, 2008

時代をEditする雑誌:BRUTUSを眺めて、Creativeの真髄をつかむ

以前にもこのブログで私が購読したり、時折買っては眺めている雑誌群を紹介したが、その中でも本当に長年愛読している雑誌がある。「BRUTUS」がそれ。
その時代のカルチャー、トレンドなどを毎号テーマとして、縦横無尽にBRUTUSならではの視点、世界観で時代をEditして行く。雑誌自体のデザインを含めた表現方法や姿勢は、どの誌にもないオリジナルな切れ味を見せる。


例えば、最新号の「すいすい理解(わか)る現代アート」。これは、現代アートに今まで取っ付き難いなぁと感じていた人でも、スルッと入っていける構成になっている。そのカテゴリ分けも今までにないもので、「なんでも大きければアートになるんですか?」とか、「そもそもなぜ便器がアートなんですか?」とか、実に面白く現代アートを読ませる。初心者にも理解し易いText構成、だからといって現代アートに造詣が深い人々も飽きさせない。これこそ、私が目指す"Think-Write"な文体ではないだろうか。


この雑誌は、その他にも私に気付きを与えてくれる。少し前の号になるのだが、「読書計画2008」の中で、私は1つのCreativeな新進気鋭企業を発見。もちろん特集は読書なので、様々な人々の読書についてのストーリーが展開されているのだが、私のアンテナにフィットしたページにスッと目が止まった。私が今まで聞いたことがなかった「TAKRAM(たくらむ)」という企業の創業メンバーである田川氏と畑中氏の読書ストーリーを展開している箇所だった。その記事を読んでいると、彼らの読書傾向が実に私にフィットした。

彼らの書籍チョイスも良い感じだったが、企業名はもっと良い感じ。「TAKRAM」はデザイン・エンジニアリング・ファームを標榜する企業。このようなフィールドの企業は一般的に、「~ソリューション」「~コンサルティング」などとネーミングする企業が多い中、「TAKRAM=たくらむ=企む」とこの企業が目指す本質部分をずばり表現している所に共感を覚える。やはり、クライアントに対して何らかのアドバイス=付加価値を与える企業は、センスの良い遊び心と、専門知を駆使したプロフェッショナリズムを兼ね備えた組織体であって欲しいと、私は常々考えている。まだ創業して2年のこの企業を牽引する田川氏と畑中氏は、両名ともに工学を学んだ後で海外留学。工業デザインを海外で学び、デザインとエンジニアリングという二つの視点を生かして製品開発などを行っている。こういうセンスを持ち合わせた企業には、グローバル市場へ殴り込みをかけて欲しい。

BRUTUSのバックナンバーは、我が自宅にここ10年分ぐらいのお気に入りを残してある。その中でも、印象深い号は以下のような感じになるかな。これを見ても、アート、写真、などCreativeな事象を取り扱ったものが多い。茂木健一郎氏を特集した号は、これぞBRUTUSというページ構成が印象的だったことを憶えている。皆さんも何冊かは目にされているかな?

Sunday, February 24, 2008

Jan. to Feb.: バーチャルな事象あれこれ

2月は今日がブログ初書き込み。どうも、2月はブログを書くという意識が薄れていて、今日まで手つかずであった。

という訳で今回のテーマは、「バーチャル事象あれこれ」としてみた。この2月に私が実際使ってみたバーチャル上のサービス、バーチャル上に出現した私の興味を喚起した様々な事象について、簡単に振り返ってみたい。

* デジタルライブラリーの行方



米カーネギー・メロン大学などによる書籍デジタル化プロジェクト"Million Book Project"が昨年11月27日、150万冊の書籍のデジタル化を完了したと表明。「Universal Library」サイトでの無料公開を開始した。このバーチャルライブラリーには多くの希少書籍などが含まれ、掲載書籍の半数は無料で全文を閲覧可能のようだ。
さてさて、このライブラリーは、現代版「百科全書」になりうるのだろうか。
興味を持たれた方は、プラグインのAlternaTIFF(Windows専用)またはDjVu Browser Pluginのインストールして、バーチャルライブラリーを体感してみてください。

* Blogの売買!?

ブログ市場というサービスが出現している。ブログを買いたい人と売りたい人を結ぶマッチングサイトだそうだ。もう更新できなくなったブログをそのまま放置しておくのはもったいないので、それを誰かに売ってしまおうということらしい。もちろんどんなブログでも良いわけではなくて、これまでに書いた記事の総数、Googleページランク(Googleの解析に基づく人気度の指標)、月間アクセスなどを公表したうえで希望価格を出して入札を待つ、というシステム。さらに、被リンク数(他のサイトからそのブログへリンクしてもらってる数)によっても価格を吊り上げるることができるみたい。う~~ん、ブログは本来、様々な知識や情報を持った人々が、自分の考えや意見を日記形式で伝え、意見交換をしていくコミュニケーションの「場」であるはず。これをも売買対象としていくことに、私は若干の違和感を憶える。

* あらたにす

朝日と日経、読売の三紙の記事を、ネット上で読み比べることができるという「新s あらたにす」なるサイトが立ち上がった。Google Newsなどに刺激を受けた動きなんだろう。まあ、バーチャルならではの面白い試みとは思いますね。でも、インターネットが勃興した時期に、将来的には新聞などのマスメディアは駆逐されるなどと言っていた評論家は、現在のバーチャルとリアルのメディアの棲み分け状況をどう感じてるのかな。

* Googleリーダー



Googleリーダー」なるサービスを1月後半から使い始めている。
同僚・Mr. Hからのリコメンドでこのサービスを知ったのだが、これが本当に使い勝手が良い。
私は今まで、ネット上で一番新鮮な情報を集めるのに、ブログのチェックを欠かしたことがない。
プライベートで興味を持った事柄に関しての情報検索であれば時間をかければよいが、ビジネスにおける情報編集や分析に関しては時間との勝負ってとこがある。ビジネス系、トレンド系、人文・社会学系など、購読しているページは海外・日本と合わせると膨大なものになる。このサービスを知る前は、いちいちサイトにアクセスして、更新した情報を吟味して、読んでいた。実に非合理的!!
このサービスを使い始めて約1ヶ月、更新情報を一つの画面で眺めることが、これだけ時間短縮に繋がり、実に有難いサービスであることを実感している。
今更ながら思うのだが、Googleは、世界中に散らばる情報を統合、再編集して、一体その先に何を見ているのだろう。

Tuesday, January 29, 2008

ふと考えた、世界認識の仕方

このブログでもよく触れている、クリエイティブ領域の人々との交流が今年になっても続いている。

先日も、漫画家を目指しながら、有名な漫画家先生のチーフアシスタントをやっている人と食事をした。その人と対話していて、「この人は、おそらく私の世界認識とは全く別物の認識の仕方をしているに違いない」ということを私は会話の端々から感じ取った。
今まで出会ってきたクリエイティブを生業にしている人達もまた、街中にに溢れるグラフィックやデザインの中で、明らかに「INなもの」と「OUTなもの」とを見分けているのだろう。いや、どんな平凡な風景だろうと、そこにある色彩や明暗、形状、などを、私とは全く違う見方で捉えていて、何かをそこから感じているんだろう、と思った。例えばだが、トマトを見たときに、私としては言葉としての「トマト」以外に感じることはないのだが、クリエイティブ領域の人々は「圧倒的な赤褐色」や「生命感あふれる質感」をビビッドに感じるのではないだろうか。

例えば、今年1月2日にNHKで放送された「プロフェッショナル 仕事の流儀 イチロー・スペシャル」を見て、イチロー自身の口から発せられる言葉を聞いていると、彼にしか見えていない空間があるように感じた。



また随分前に、吉本隆明「世界認識の方法」を読んでいて感じたのも、人は他者によって作られた自分に責任を負わなければならない→他者の視点→世界視線を持って、臨むことこそがクリエイティブな領域に踏み込んでいくことなのだろうと、ぼんやりとではあるが認識したものだ。



このように考えて来ると、世界を認識する方法・仕方は、実は私自身が思っているよりもバリエーション豊かなのかもしれない。
例えば、
● クルト・ゲーデルのように数字で世界を認識する数学者や物理学者 
● ジョン・ケージのように音楽で世界を認識する作曲家や声楽家
● 北大路魯山人のように匂いや味で世界を認識する料理人やソムリエ
● イチローのように運動で世界を認識するアスリート
● ジョージ・ソロスのようにお金で世界を認識する金融家
のような感じで。

どんな領域であっても最先端トップランナーとして走っている人間は、よりそれを先鋭的に感じているのではないだろうか?
私自身は、ファッション、アート、音楽、映画、書籍などに対してアンテナをいつも高く上げて、少しでも自分と違ったフィールドの感度を活性化させようと努力はしているんですがね。しかし、世界をバリエーション豊かな認識力で捉えている人たちにとってみれば、独自の世界認識の方法こそが生きる意味であり、世界そのものである、というようなこともあるのだろう。だから、なかなか私自身その壁を乗り越えるというのは容易なことではないと考えている。でも、その障壁が高ければ高いほど、チャレンジのし甲斐はあるんだけどね。

いずれにしても、この世界には本当に多種多様なキャリアがあり、それぞれのキャリアに特有の「認識の作法」というものがある。今後もそういった人々とのコミュニケーションを重ねていくことで、世界を豊かに認識し直すことになるのではないか、と期待している。