2008年の終わりに、何を書き残そうかと思案してみた。
このblogを始めて2年3ヶ月が経ったが、今日まで2回の大晦日を超えてきているので、今までの大晦日に何を書いてきたかをまずは見てみた。
2006年は、「不定型な思考」を基点としたこのblogに対する向き合い方を語っている。
2007年は、Time Magazineの“Person of the Year”に端を発した「小さな英雄待望論」について語っている。
こうして振り返ってみると、その年の締めとして新たに訪れる年への思いを込めたテクスト構成になっているイメージである。
では、今年はどんなお題で2008年の締めとすべきか。
そう考えると、私のプライベートで起こった事象をテーマとして、2009年へのブリッジとしてみたい。
私にとっての2008年は、長期間に渡って病気治療を行っていた我が父が今年7月に他界し、10月には私の姪・花音ちゃんが誕生した。まさに、2008年は私にとって大変激動の年であったといえよう。
2008年の終わりの日に、亡父へ向けた追悼私記を読んでいると、そこには死者に対する愛惜や、敬虔な気分という意味を超克した亡父のLate Styleに対するリスペクトが表現されている。反対に、私の姪に対してのテクストでは、当然希望に溢れた文面になっている。
ここから考えられるのは、「Generationの交差」ではないだろうか。私自身でもこのGenerationの交錯、交通、交代を身を以て体験した。
この“Generation”というワードには、発生や生成と関わりの深い語根“gen”をギリシャ語より受け継いでいる。この単語には極めて多様な意味合いが含まれていて、世代、形成、出産、生殖、発生、生成などがあり、2009年にブリッジするには一番適切な言葉ではないだろうか。私自身が世代交代を体感したように、世界も日本も類似した現象を体験しつつある。“Generation”という問題群は、その語根・genを持つ関連語、Eugenics(優生学)、Gene(遺伝子)、Genealogy(家系、血統)、Genesis(起源)、などとも結びついてくる21世紀のアクチュアルな課題でもある。
この“Generation”の持つ課題を踏まえ、2009年は再び新たな発生・生成が行われることを願いつつ、この辺りで今年最後のblogを終わろう。
今年も1年、公私にわたって御世話になりました。
それでは、皆さん良いお年を!!
Wednesday, December 31, 2008
Tuesday, December 30, 2008
Logo:Creativeの源泉がそこにはある
いよいよ、今年も残り1日を残すのみとなりましたね。
こんな日には、私のビジネス的専門領域の1つであるブランド(企業)ロゴのお話でもしてみましょうか。
皆さんは、Logoと聞いてすぐに何を思い出すでしょう。ある人は企業ロゴ(例えば、ソニーとかアップル)が頭にすぐ浮かぶだろうか。それとも、ある人はファッションブランドのロゴ(例えば、LV=ルイ・ヴィトン、エルメス、シャネルマーク)を思い浮かべるだろうか。
それだけLogoというものは、企業やブランドにとって切っても切り離せないモノとなっている。
私が数年前、ブランド戦略構築現場にいた頃から、この社会や消費者にダイレクトに繋がる意匠に対して大変興味を持って、ビジネス視線で考察していた。
しかし最近、企業の商品やサービスに関して、ここのブランド・ロゴだから大丈夫であるなどの信頼性を消費者などに植え付けるはずのLogoが、少し安易に扱われ始めているのではないかと危惧している。
そんな危機感の中、面白い記事をWeb上で発見した。
それは、“45 Rules for Creating a Great Logo Design”というモノ。ここには、簡潔ではあるが、大変重要なことが表現されている。例えば、「3つ以上の色を使わない」、「可能ならロゴを正方形に収める」、「ロゴには視認性がなければならない」、「地球をシンボルに使わない」などなど、Logoをクリエイトする人々にとっては基本中の基本の事柄が列挙されている。
だが、私はこの基本が守られていない企業(ブランド)ロゴをよく見かけるようになった。
皆さんもご存じのドコモ。この企業のロゴマークが一新されたことに気付いてらっしゃいますよね。
3つ以上の色を使わない、というのは時代の変化の中で重要である。今回のリニューアルで、赤色単色にしたところは、ビジネスに対する情熱、未来への先進性を強く表現できていて良いと思います。しかし、これは日本の企業に大変多いのですが、どうもロゴが横に長すぎる。これは、45の法則の中でも述べられている、可能ならLogoを正方形に収めるということに反してます。Logoって言うのは、縦書きにする場合も多いので、その際どんなに頑張っても視認性が劣ります。これでは、せっかくのロゴ・リニューアルも台無しって感じでしょうか。
私が好きな企業(ブランド)ロゴは、以下のミニマルではあるが、主張していて、世界中の誰もがすぐに認識できるTypeでしょうか。
上記の企業って、それぞれ自身の市場でユニークなポジションを構築し、消費者に対して分かり易いメッセージを発し、何か驚きのある商品やサービスを提供し続けていると思いませんか?やはり、こういう企業はロゴ創造にもちゃんと向き合ってますよね。
これを見ると、もう少し日本の企業はオリジナルなロゴ構築=ブランド価値構築を、真剣に再考すべき時なのかもしれません。
少し辛辣に日本企業について評しましたが、日本でもロゴ構築について真摯に取り組んでいる組織もある。それは、国立新美術館。私はここのLogoの先進性、斬新さに、初めて見たとき驚きを覚えた。本当にオリジナル性に富んでいる。このロゴを作ったのは、現在デザイン界の寵児とも言われている佐藤可士和だ。彼は、Logoに使われているフォントも一から創造し、このどこにも存在しない、世界に1つだけのLogoを作り上げた。このような困難なクリエイティブ作業を行いながら、先に述べた45の法則の大部分を満たしていることにまた驚き、日本でもまだまだ素晴らしい発想を含有したLogoを構築できることに感心した。
2008年は「デザイン」や「クリエイティブ」という言葉が、雑誌、書籍、メディア、ビジネス現場で数多く見聞きした。今日のLogoの話しもそうだが、まだまだ日本のデザイン力はアメリカや欧州と比較すると優位性を持っているとは言えない。“Made in Japan”といえば、高品質やリーズナブルということがグローバル市場では常識となっている。そこに、クリエイティブ力やデザイン力に繋がるフレーズが続いて欲しい。そのためには、もっともっとクリエイティブの現場の人々が世界進出を果たすべきであろう。私も2009年のKeywordを“Architecture”を掲げた者として、来年は世界へ向けてその軸足を移していけるように一層精進したい。
こんな日には、私のビジネス的専門領域の1つであるブランド(企業)ロゴのお話でもしてみましょうか。
皆さんは、Logoと聞いてすぐに何を思い出すでしょう。ある人は企業ロゴ(例えば、ソニーとかアップル)が頭にすぐ浮かぶだろうか。それとも、ある人はファッションブランドのロゴ(例えば、LV=ルイ・ヴィトン、エルメス、シャネルマーク)を思い浮かべるだろうか。
それだけLogoというものは、企業やブランドにとって切っても切り離せないモノとなっている。
私が数年前、ブランド戦略構築現場にいた頃から、この社会や消費者にダイレクトに繋がる意匠に対して大変興味を持って、ビジネス視線で考察していた。
しかし最近、企業の商品やサービスに関して、ここのブランド・ロゴだから大丈夫であるなどの信頼性を消費者などに植え付けるはずのLogoが、少し安易に扱われ始めているのではないかと危惧している。
そんな危機感の中、面白い記事をWeb上で発見した。
それは、“45 Rules for Creating a Great Logo Design”というモノ。ここには、簡潔ではあるが、大変重要なことが表現されている。例えば、「3つ以上の色を使わない」、「可能ならロゴを正方形に収める」、「ロゴには視認性がなければならない」、「地球をシンボルに使わない」などなど、Logoをクリエイトする人々にとっては基本中の基本の事柄が列挙されている。
だが、私はこの基本が守られていない企業(ブランド)ロゴをよく見かけるようになった。
皆さんもご存じのドコモ。この企業のロゴマークが一新されたことに気付いてらっしゃいますよね。
3つ以上の色を使わない、というのは時代の変化の中で重要である。今回のリニューアルで、赤色単色にしたところは、ビジネスに対する情熱、未来への先進性を強く表現できていて良いと思います。しかし、これは日本の企業に大変多いのですが、どうもロゴが横に長すぎる。これは、45の法則の中でも述べられている、可能ならLogoを正方形に収めるということに反してます。Logoって言うのは、縦書きにする場合も多いので、その際どんなに頑張っても視認性が劣ります。これでは、せっかくのロゴ・リニューアルも台無しって感じでしょうか。
私が好きな企業(ブランド)ロゴは、以下のミニマルではあるが、主張していて、世界中の誰もがすぐに認識できるTypeでしょうか。
上記の企業って、それぞれ自身の市場でユニークなポジションを構築し、消費者に対して分かり易いメッセージを発し、何か驚きのある商品やサービスを提供し続けていると思いませんか?やはり、こういう企業はロゴ創造にもちゃんと向き合ってますよね。
これを見ると、もう少し日本の企業はオリジナルなロゴ構築=ブランド価値構築を、真剣に再考すべき時なのかもしれません。
少し辛辣に日本企業について評しましたが、日本でもロゴ構築について真摯に取り組んでいる組織もある。それは、国立新美術館。私はここのLogoの先進性、斬新さに、初めて見たとき驚きを覚えた。本当にオリジナル性に富んでいる。このロゴを作ったのは、現在デザイン界の寵児とも言われている佐藤可士和だ。彼は、Logoに使われているフォントも一から創造し、このどこにも存在しない、世界に1つだけのLogoを作り上げた。このような困難なクリエイティブ作業を行いながら、先に述べた45の法則の大部分を満たしていることにまた驚き、日本でもまだまだ素晴らしい発想を含有したLogoを構築できることに感心した。
2008年は「デザイン」や「クリエイティブ」という言葉が、雑誌、書籍、メディア、ビジネス現場で数多く見聞きした。今日のLogoの話しもそうだが、まだまだ日本のデザイン力はアメリカや欧州と比較すると優位性を持っているとは言えない。“Made in Japan”といえば、高品質やリーズナブルということがグローバル市場では常識となっている。そこに、クリエイティブ力やデザイン力に繋がるフレーズが続いて欲しい。そのためには、もっともっとクリエイティブの現場の人々が世界進出を果たすべきであろう。私も2009年のKeywordを“Architecture”を掲げた者として、来年は世界へ向けてその軸足を移していけるように一層精進したい。
Monday, December 29, 2008
2008 Art & Me (vol.2)
昨日は、記憶装置としての美術館やギャラリーで、この2008年に訪れたアート展について述べた。
今日はこの1年、私が身近で体感したアート、私にフィットしたリアル・アートについて書いてみたい。
まず紹介したいのは、私の友人であり、現在Belgiumで創作活動を継続している現代Artist・Daisaku NAGAIの作品である。彼の作品は、ある時は詩的であり、哲学的であり、文学的でもある。私にとっては、まさにリアル・アートである。今年彼が久しぶりに帰国し、その創作物に私にとってのリアル・クローズ・ブティックである「CINQUE CLASSICO」のリニューアル・パーティーで出会った。そのクリエイティブ力は以前にも増して、軽やかさと重厚さが混在していた。
その中で購入したのが、この作品。
今年5月にその友人がベルギーで個展を開催した際、その個展に関してベルギーのフランス語圏有力新聞の「Le Soir」に掲載された。この記事を構成するにあたってインタビューも行われたようだが、そのインタビュアーはかの巨匠:ロイ・リキテンスタインにもインタビューした事のある人だったようだ。そのインタビュアーは、彼の作品を見てリキテンスタインを想起したようである。
Daisaku NAGAIの作品以外で、リアル・アートとして購入したり、貰ったりしたモノを一部紹介してみよう。
まずは、よくステーショナリーとかを入れているCube Poach(OriginalFake×Porter)。これは、私が最近注目しているArtist・KAWSのデザインで、彼のアイコン“×”や、アートワーク“TEETH”によるフリップトップ、ファスナーは実にユニーク。彼のアートワークには2009年も大注目。
お次は、本日も着用していた藤原ヒロシと村上隆のコラボによるアートT-Shirts。今年東京で、藤原ヒロシがキュレーターを務めた「Hi&Lo」展の時に作成されたモノ。アートを着るってのも良いかも。
最後に、奈良美智がクリエイトしたちょっと眠そうな犬のブックシェルフ。いつも、私が新たな本を購入してくるのを自宅で待ちわびている。
まあ、こんな感じで2009年もアートというモノを身近で体感し、どこにでも偏在する存在としていきたい。
今日はこの1年、私が身近で体感したアート、私にフィットしたリアル・アートについて書いてみたい。
まず紹介したいのは、私の友人であり、現在Belgiumで創作活動を継続している現代Artist・Daisaku NAGAIの作品である。彼の作品は、ある時は詩的であり、哲学的であり、文学的でもある。私にとっては、まさにリアル・アートである。今年彼が久しぶりに帰国し、その創作物に私にとってのリアル・クローズ・ブティックである「CINQUE CLASSICO」のリニューアル・パーティーで出会った。そのクリエイティブ力は以前にも増して、軽やかさと重厚さが混在していた。
その中で購入したのが、この作品。
今年5月にその友人がベルギーで個展を開催した際、その個展に関してベルギーのフランス語圏有力新聞の「Le Soir」に掲載された。この記事を構成するにあたってインタビューも行われたようだが、そのインタビュアーはかの巨匠:ロイ・リキテンスタインにもインタビューした事のある人だったようだ。そのインタビュアーは、彼の作品を見てリキテンスタインを想起したようである。
Daisaku NAGAIの作品以外で、リアル・アートとして購入したり、貰ったりしたモノを一部紹介してみよう。
まずは、よくステーショナリーとかを入れているCube Poach(OriginalFake×Porter)。これは、私が最近注目しているArtist・KAWSのデザインで、彼のアイコン“×”や、アートワーク“TEETH”によるフリップトップ、ファスナーは実にユニーク。彼のアートワークには2009年も大注目。
お次は、本日も着用していた藤原ヒロシと村上隆のコラボによるアートT-Shirts。今年東京で、藤原ヒロシがキュレーターを務めた「Hi&Lo」展の時に作成されたモノ。アートを着るってのも良いかも。
最後に、奈良美智がクリエイトしたちょっと眠そうな犬のブックシェルフ。いつも、私が新たな本を購入してくるのを自宅で待ちわびている。
まあ、こんな感じで2009年もアートというモノを身近で体感し、どこにでも偏在する存在としていきたい。
Sunday, December 28, 2008
2008 Art & Me (vol.1)
リーマン・ブラザーズが破綻した翌日に、ダミアン・ハーストの新作オークションでの落札価格が約211億円に達したことに驚かされた反面、世界金融危機に影響を受ける形でアートバブルも弾けてしまった感も否めない。
このように、アート界でも動きが激しかった1年の中で、私もアート展へ足を運んだり、実際に作品を購入したりもした。つまり、私が語るアートの中には、美術館やギャラリーなどの特有の敷居の高さで展示されるモノと、私の等身大にフィットするリアル・アートが存在すると言うこと。
2008年の非リアル・アートの世界=美術館での作品鑑賞した中で、私が印象に残っているモノを記述してみたい。
フランスの哲学者・ジル・ドゥルーズは、自身の映画論の中で「静物とは時間である」と述べ、現代映画は「運動感覚的な状況」から「光学的音声学的な状況」へと転換したと、時間イメージの重要性を強調する。
じゃあ、絵画=アートの世界はどうだろう?近年現代Artist達が、絵画を意識した映像作品を旺盛に創造し始めている。動くモノが動かないでいるという状況は、絵画ではなかなか表現し難いもので、純粋に映像でしか他者に伝えられない。
時間イメージが静と動によって表現される、つまり映像と絵画が融合し始めているのだ。
私が今年訪れた中で最も印象深い「STILL MOTION: 液晶絵画」展(於・国立国際美術館<大阪>)は、上記の事象を再認識させてくれるもになった。
千住博、ジュリアン・オピー、ブライアン・イーノ、森村泰昌など、私が興味を持つArtist達が、微妙に動く絵画を液晶画面上で表現した作品群を創造していた。美術館の限定された空間に、多様な時間軸を内包するクールな映像が作る絵画を目の当たりにし、私の感性を刺激した。
次の非リアル・アートは、今年兵庫県立美術館で開催された「冒険王・横尾忠則」展。
これだけ纏まった形で、横尾忠則の描いたモノに接するのは初めてだった。特に印象深かったのは、横尾の「赤色」で表現された作品群だった。彼の最も旺盛にクリエイティブ力を発揮していた時代の作品群に出会えたことに感謝したい。
明日は、私が2008年に購入して、着用&使用したり、自宅で飾ったりしているリアル・アートを論じてみたい。
このように、アート界でも動きが激しかった1年の中で、私もアート展へ足を運んだり、実際に作品を購入したりもした。つまり、私が語るアートの中には、美術館やギャラリーなどの特有の敷居の高さで展示されるモノと、私の等身大にフィットするリアル・アートが存在すると言うこと。
2008年の非リアル・アートの世界=美術館での作品鑑賞した中で、私が印象に残っているモノを記述してみたい。
フランスの哲学者・ジル・ドゥルーズは、自身の映画論の中で「静物とは時間である」と述べ、現代映画は「運動感覚的な状況」から「光学的音声学的な状況」へと転換したと、時間イメージの重要性を強調する。
じゃあ、絵画=アートの世界はどうだろう?近年現代Artist達が、絵画を意識した映像作品を旺盛に創造し始めている。動くモノが動かないでいるという状況は、絵画ではなかなか表現し難いもので、純粋に映像でしか他者に伝えられない。
時間イメージが静と動によって表現される、つまり映像と絵画が融合し始めているのだ。
私が今年訪れた中で最も印象深い「STILL MOTION: 液晶絵画」展(於・国立国際美術館<大阪>)は、上記の事象を再認識させてくれるもになった。
千住博、ジュリアン・オピー、ブライアン・イーノ、森村泰昌など、私が興味を持つArtist達が、微妙に動く絵画を液晶画面上で表現した作品群を創造していた。美術館の限定された空間に、多様な時間軸を内包するクールな映像が作る絵画を目の当たりにし、私の感性を刺激した。
次の非リアル・アートは、今年兵庫県立美術館で開催された「冒険王・横尾忠則」展。
これだけ纏まった形で、横尾忠則の描いたモノに接するのは初めてだった。特に印象深かったのは、横尾の「赤色」で表現された作品群だった。彼の最も旺盛にクリエイティブ力を発揮していた時代の作品群に出会えたことに感謝したい。
明日は、私が2008年に購入して、着用&使用したり、自宅で飾ったりしているリアル・アートを論じてみたい。
Saturday, December 27, 2008
極私的Cinemas Critique 2008
最近読んだ本の中で、最近の映画について面白いことが書かれていた。
その本は、私が映画や文学批評に関してのテクストに大変影響を受けている蓮實重彦の「映画論講義」。
蓮實氏のCritiqueには、切れ味、美しさ、シニカルさなど、私は彼のテクストに心地良さを感じる。
さて、この本で私が面白いと感じたのは、ヴィデオやDVDなどの反復装置が出現する前までは、その作品を二度と見れないという思いから、画面に対する集中力が映画を観る動体視力を鍛えてくれたという箇所。作品に一期一会の感覚を持って観るという行為が、その当時の映画批評を大変豊かなモノとしていたが、現在本当の意味での批評が減ってきていることを憂いているのだ。
こういう現在という背景も考慮しつつ、私が自身の動体視力で2008年に観た映画について、極、極、私的な批評を試みる。劇場、DVDやスカパーのPPVで観た数多くの作品の中で、私が印象深かったモノをピックアップしてみたい。
まずは、今年の私が観た映画の中でもっと印象深く、2008年ナンバーワンの作品かもしれない。
その作品とは、「潜水服は蝶の夢を見る」。
皆さんは題名を聞くと、何かファンタジーを予感させる作品と思うかもしれない。しかし、この作品は一人の有名ファッション誌・ELLEの名編集長が直面した病を起点とした困難、そのすさまじい孤独感・絶望感、壮絶なコミュニケーション手段の中から創造し結実した、一冊の自伝タイトルから由来している。
この作品には語るべきポイントが多くあるので、敢えてキーワード化してみたい。
究極の一人称映画/ロックトイン・シンドローム(閉じ込め症候群)/左目以外全身不随/20万回の瞬き/スーザン・ソンタグ的隠喩としての病い/柄谷行人的内省と遡行/絶望と自己憐愍からの脱却による三人称視点の出現/異形の体験/隠喩としての鋼の潜水服/MonologueとImaginationの間で/モノローグと映像が呼応しあう音楽的編集リズム/瞬きCommunicationによる文章の紡ぎ方/現代アーティストの絵画表現による映像美
いずれにしても、この作品は間違いなくジュリアン・シュナーベル自身の最高傑作と言えるんじゃないかな。まだ観てない人、一見の価値ありですよ。
ディンゼル・ワシントン、Undergroundの凄み、実に渋い演技です。ラッセル・クロー、これまた渋い演技です。監督は言わずと知れた、リドリー・スコット。彼自身の作品で私が印象に残ってるのは、やはり「ブレード・ランナー」と「ブラック・レイン」。彼は人間の奥底に眠る狂気を撮らせたらピカイチだと思ってます。しかし最近のリドリー・スコットの映画、それほど興味を持てずにきました。そこに「American Gangstar」。これはリドリー・スコットの傑作の1つになるんじゃないかな。ちょっと上映時間が長い気もしたが、そんなことも忘れさせてくれる疾走感が、この映画の醍醐味。あの"God Father"や"Scarface"以来、私の気持ちに躍動感を感じさせた作品でした。
ここまでが、今年の私の中での2作品。
ここから、上記の作品ほどではないが、私の動体視力に残像が残っているモノを挙げてみたい。
この「ノーカントリー」は、アメリカの抱える、社会、戦争、犯罪などが複雑に絡み合った課題を浮き彫りにする。
作品のメッセージは重いが、アメリカ生活経験者の私からすると、凄くリアルに感じる。
この「Factory Girl」は、アンディ・ウォーホルの「ファクトリー」と呼ばれるスタジオに実際にいたイーディ・セジウィックの物語。アンディ・ウォーホルのミューズでもあり、 1960年代のニューヨーク・アンダーグラウンド・カルチャーの伝説のミューズと呼ばれた彼女は28歳という若さでこの世を去った。その生き急いだ彼女の人生と、アンディ・ウォーホルが当時体現していたポップ・アートの源泉をこの作品を通して読み取れたのが印象深い。特に、アンディ・ウォーホル役のガイ・ピアースが素晴らしかった。
「フローズン・タイム」は美しい作品である。本作の監督はファッション・フォトに映画的センスを盛り込み、「VOGUE」、「Numero」、「i-D」など、多数のファッション誌で活躍する写真家ショーン・エリス。この作品では、写真という「一瞬」を切り取ることが仕事である彼が、時間に対する独特の感性を映画として表現した作品。私は、このように異業種の人が撮った映画昔から好き。
ウォン・カーウァイの初の英語作品「マイ・ブルーベリー・ナイツ」。NY→Las Vegas→NYという空間を舞台とした、実にきっちり撮られたロードムービー。この作品で女優デビューを果たしたノラ・ジョーンズとジュード・ロウの間のダイアローグの洒落た雰囲気が凄く良かった。映像や語法が凄くミニマルな部分に好感が持てる。
「アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生」。私の大好きな女性写真家の生き様を表現した作品。写真が表現する視覚芸術に止まらず、彼女自身が歩んできたProfessionalismとは何かを探るにも適した作品だった。彼女の名前を知らなくても、彼女の撮った写真は皆さん一度は目にしてると思いますよ。
最後は、賛否両論、罵詈雑言、などなど多様な意見が飛び交った作品「クローバーフィールド」。最近スカパーのPPVでも見直したのだが、劇場で観た当初は私自身の評価は低かった。やはりこの作品のリアル感覚に関しては評価すべきだと感じ始めている。というのも、かの「ブレアウィッチ・プロジェクト」とは違う深さで、現場視線(=事象に居合わせた普通の人々が撮影した記録をそのまま映画にした)感覚を与えている所が新しい。高度情報化社会での多様なデジタル・デバイスで、事件、事故、災害を即座に撮影し、リアル・タイムで流していくコミュニケーションに対しての警告も含まれている感じもするし。
以上が今年見た作品から厳選した作品である。
その他にも、インディージョーンズ、X-File、イーグル・アイ、スパイダーウィックの謎、ハプニング、ハムナプトラ3、WALL-E、シルク、などなど多くの作品を観てきたが、ここに書こうと思わせるまでには至らなかった。
2009年も自身の動体視力を大事にしながら、多くの作品を鑑賞し、私の思考を活性化させたい。
その本は、私が映画や文学批評に関してのテクストに大変影響を受けている蓮實重彦の「映画論講義」。
蓮實氏のCritiqueには、切れ味、美しさ、シニカルさなど、私は彼のテクストに心地良さを感じる。
さて、この本で私が面白いと感じたのは、ヴィデオやDVDなどの反復装置が出現する前までは、その作品を二度と見れないという思いから、画面に対する集中力が映画を観る動体視力を鍛えてくれたという箇所。作品に一期一会の感覚を持って観るという行為が、その当時の映画批評を大変豊かなモノとしていたが、現在本当の意味での批評が減ってきていることを憂いているのだ。
こういう現在という背景も考慮しつつ、私が自身の動体視力で2008年に観た映画について、極、極、私的な批評を試みる。劇場、DVDやスカパーのPPVで観た数多くの作品の中で、私が印象深かったモノをピックアップしてみたい。
まずは、今年の私が観た映画の中でもっと印象深く、2008年ナンバーワンの作品かもしれない。
その作品とは、「潜水服は蝶の夢を見る」。
皆さんは題名を聞くと、何かファンタジーを予感させる作品と思うかもしれない。しかし、この作品は一人の有名ファッション誌・ELLEの名編集長が直面した病を起点とした困難、そのすさまじい孤独感・絶望感、壮絶なコミュニケーション手段の中から創造し結実した、一冊の自伝タイトルから由来している。
この作品には語るべきポイントが多くあるので、敢えてキーワード化してみたい。
究極の一人称映画/ロックトイン・シンドローム(閉じ込め症候群)/左目以外全身不随/20万回の瞬き/スーザン・ソンタグ的隠喩としての病い/柄谷行人的内省と遡行/絶望と自己憐愍からの脱却による三人称視点の出現/異形の体験/隠喩としての鋼の潜水服/MonologueとImaginationの間で/モノローグと映像が呼応しあう音楽的編集リズム/瞬きCommunicationによる文章の紡ぎ方/現代アーティストの絵画表現による映像美
いずれにしても、この作品は間違いなくジュリアン・シュナーベル自身の最高傑作と言えるんじゃないかな。まだ観てない人、一見の価値ありですよ。
ディンゼル・ワシントン、Undergroundの凄み、実に渋い演技です。ラッセル・クロー、これまた渋い演技です。監督は言わずと知れた、リドリー・スコット。彼自身の作品で私が印象に残ってるのは、やはり「ブレード・ランナー」と「ブラック・レイン」。彼は人間の奥底に眠る狂気を撮らせたらピカイチだと思ってます。しかし最近のリドリー・スコットの映画、それほど興味を持てずにきました。そこに「American Gangstar」。これはリドリー・スコットの傑作の1つになるんじゃないかな。ちょっと上映時間が長い気もしたが、そんなことも忘れさせてくれる疾走感が、この映画の醍醐味。あの"God Father"や"Scarface"以来、私の気持ちに躍動感を感じさせた作品でした。
ここまでが、今年の私の中での2作品。
ここから、上記の作品ほどではないが、私の動体視力に残像が残っているモノを挙げてみたい。
この「ノーカントリー」は、アメリカの抱える、社会、戦争、犯罪などが複雑に絡み合った課題を浮き彫りにする。
作品のメッセージは重いが、アメリカ生活経験者の私からすると、凄くリアルに感じる。
この「Factory Girl」は、アンディ・ウォーホルの「ファクトリー」と呼ばれるスタジオに実際にいたイーディ・セジウィックの物語。アンディ・ウォーホルのミューズでもあり、 1960年代のニューヨーク・アンダーグラウンド・カルチャーの伝説のミューズと呼ばれた彼女は28歳という若さでこの世を去った。その生き急いだ彼女の人生と、アンディ・ウォーホルが当時体現していたポップ・アートの源泉をこの作品を通して読み取れたのが印象深い。特に、アンディ・ウォーホル役のガイ・ピアースが素晴らしかった。
「フローズン・タイム」は美しい作品である。本作の監督はファッション・フォトに映画的センスを盛り込み、「VOGUE」、「Numero」、「i-D」など、多数のファッション誌で活躍する写真家ショーン・エリス。この作品では、写真という「一瞬」を切り取ることが仕事である彼が、時間に対する独特の感性を映画として表現した作品。私は、このように異業種の人が撮った映画昔から好き。
ウォン・カーウァイの初の英語作品「マイ・ブルーベリー・ナイツ」。NY→Las Vegas→NYという空間を舞台とした、実にきっちり撮られたロードムービー。この作品で女優デビューを果たしたノラ・ジョーンズとジュード・ロウの間のダイアローグの洒落た雰囲気が凄く良かった。映像や語法が凄くミニマルな部分に好感が持てる。
「アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生」。私の大好きな女性写真家の生き様を表現した作品。写真が表現する視覚芸術に止まらず、彼女自身が歩んできたProfessionalismとは何かを探るにも適した作品だった。彼女の名前を知らなくても、彼女の撮った写真は皆さん一度は目にしてると思いますよ。
最後は、賛否両論、罵詈雑言、などなど多様な意見が飛び交った作品「クローバーフィールド」。最近スカパーのPPVでも見直したのだが、劇場で観た当初は私自身の評価は低かった。やはりこの作品のリアル感覚に関しては評価すべきだと感じ始めている。というのも、かの「ブレアウィッチ・プロジェクト」とは違う深さで、現場視線(=事象に居合わせた普通の人々が撮影した記録をそのまま映画にした)感覚を与えている所が新しい。高度情報化社会での多様なデジタル・デバイスで、事件、事故、災害を即座に撮影し、リアル・タイムで流していくコミュニケーションに対しての警告も含まれている感じもするし。
以上が今年見た作品から厳選した作品である。
その他にも、インディージョーンズ、X-File、イーグル・アイ、スパイダーウィックの謎、ハプニング、ハムナプトラ3、WALL-E、シルク、などなど多くの作品を観てきたが、ここに書こうと思わせるまでには至らなかった。
2009年も自身の動体視力を大事にしながら、多くの作品を鑑賞し、私の思考を活性化させたい。
Friday, December 26, 2008
Music Sounds Better with Me
クリスマスも過ぎ去り、いよいよ今年もあと残り僅かとなってきた。
そこで、このblogもカウントダウン2008という感じで、今年私の関心を引いてきた多彩なジャンルに関して、振り返っていきたい。
まずは第1弾、今年の私と音楽について。
今年も多様な音に触れてきたが、その中でも聴く回数が多かった5作品を紹介してみたい。
まずは、私がiPodで聴くスタンダードになりつつある、藤原ヒロシのクラッシックカバー「Classic Dub Classics」。この作品は、その静謐な音が私を囲むスペースに溶け込んでいく。
次は、私がここ数年注目しているINO hidefumiの作品「Living Message」。彼の創り出すサウンドには、私の感性を刺激する、ジョン・ケージを彷彿とさせる現代音楽のエッセンス、優美なスコアによるミニマルな構築美などが盛り込まれている。 彼の感性と、多様な音楽の要素がバランス良く同居するサウンドは、まさに普遍的な色彩を放つ。
3つ目の作品は、Port of Notes結成10周年を記念して出されたベスト盤「Blue Arpeggio」。この作品は、ヴォーカルの畠山美由紀とアコースティック・ギターの小島大介という2つの感性のせめぎ合いから創造されるサウンドで溢れている。音というモノには、楽しさだけではなく、美しさがあることを教えてくれる。
次に控えしは、ちょっと今までとは色合いの違う(非売品という意味でも)コンピレーション・アルバム。昨年ブランド立ち上げ5周年を迎えた「百花堂」が、昨年12月に5周年パーティーを開催したとき配られたJohn Oswald、Paul Murphy、RSL、など百花堂・クリエイターの視線でチョイスされた音源を集約したモノ。そのコンピレーション・アルバムには、百花堂のブランド・プロミス(実際店内で流されている曲も含まれる)が体現された、時代の感性を見事に捉えた仕上がりとなっている。私も百花堂とは、ビジネス的関係性も構築させてもらっているので、今後もこのブランドに注目。
最後は、私の永遠のヒーロー・Glenn Gouldの「images」。この作品は、Gouldが傾倒したBachをプレイしたモノと、Not Bachという2枚組から構成されている。私が気持を高めるときに必ず聴くのは、GouldのNot Bachに入っている「DIE MEISTERSINGER」。Gouldのピアノから創造されるこのワグナーのオペラの名曲は、私が今まで聴いてきたどの音をも凌駕する。それほど、Gouldのポリフォニー音楽は素晴らしい。
以上が、今年の私と音との関わり合いである。
だが、今年私が最も残念だったのは、ライブへあまり足を運べなかったことである。
音楽は、やはりアルバムを聴くだけ、音楽を語るだけでは駄目。
2009年は、音に直に触れ合える場に存在したい。
そこで、このblogもカウントダウン2008という感じで、今年私の関心を引いてきた多彩なジャンルに関して、振り返っていきたい。
まずは第1弾、今年の私と音楽について。
今年も多様な音に触れてきたが、その中でも聴く回数が多かった5作品を紹介してみたい。
まずは、私がiPodで聴くスタンダードになりつつある、藤原ヒロシのクラッシックカバー「Classic Dub Classics」。この作品は、その静謐な音が私を囲むスペースに溶け込んでいく。
次は、私がここ数年注目しているINO hidefumiの作品「Living Message」。彼の創り出すサウンドには、私の感性を刺激する、ジョン・ケージを彷彿とさせる現代音楽のエッセンス、優美なスコアによるミニマルな構築美などが盛り込まれている。 彼の感性と、多様な音楽の要素がバランス良く同居するサウンドは、まさに普遍的な色彩を放つ。
3つ目の作品は、Port of Notes結成10周年を記念して出されたベスト盤「Blue Arpeggio」。この作品は、ヴォーカルの畠山美由紀とアコースティック・ギターの小島大介という2つの感性のせめぎ合いから創造されるサウンドで溢れている。音というモノには、楽しさだけではなく、美しさがあることを教えてくれる。
次に控えしは、ちょっと今までとは色合いの違う(非売品という意味でも)コンピレーション・アルバム。昨年ブランド立ち上げ5周年を迎えた「百花堂」が、昨年12月に5周年パーティーを開催したとき配られたJohn Oswald、Paul Murphy、RSL、など百花堂・クリエイターの視線でチョイスされた音源を集約したモノ。そのコンピレーション・アルバムには、百花堂のブランド・プロミス(実際店内で流されている曲も含まれる)が体現された、時代の感性を見事に捉えた仕上がりとなっている。私も百花堂とは、ビジネス的関係性も構築させてもらっているので、今後もこのブランドに注目。
最後は、私の永遠のヒーロー・Glenn Gouldの「images」。この作品は、Gouldが傾倒したBachをプレイしたモノと、Not Bachという2枚組から構成されている。私が気持を高めるときに必ず聴くのは、GouldのNot Bachに入っている「DIE MEISTERSINGER」。Gouldのピアノから創造されるこのワグナーのオペラの名曲は、私が今まで聴いてきたどの音をも凌駕する。それほど、Gouldのポリフォニー音楽は素晴らしい。
以上が、今年の私と音との関わり合いである。
だが、今年私が最も残念だったのは、ライブへあまり足を運べなかったことである。
音楽は、やはりアルバムを聴くだけ、音楽を語るだけでは駄目。
2009年は、音に直に触れ合える場に存在したい。
Thursday, December 25, 2008
Real Christamas Day!!
Wednesday, December 24, 2008
Tuesday, December 23, 2008
Jan. 20, 2009への高揚感
2009年1月20日、アメリカ史上初めてのブラック・アメリカンの大統領就任演説が行われる。
Mr. Barack Obamaへのアメリカのみならず世界の期待感は、様々な方面から聞こえてくる。
その期待感を象徴するように、TIME Magazineの選ぶPerson of the Year 2008は、バラク・オバマ氏だった。
それに呼応するように、TIMEのサイトでは、オバマ氏の肖像画を様々な形で表現したアートワークが掲載されている。
印象に残った作品を以下で見ていこう。
● 1,216個のカップケーキで創造したモノ
● オバマ氏自身の記事が掲載された新聞や雑誌で作った肖像画
● レゴ・ブロックで創作されたオバマ次期大統領の笑顔
● Kedsの表面にもオバマ・アート。私はこのようなデザインが好き。
● 針金によって創造されたMr. Obama。ここまで来るとアート作品として、自宅のインテリアにしてみたい。
● アメリカ各州の州旗で作られたバラク・オバマ氏。“Yes, we can!!”が今にも聞こえてきそう。
Mr. Barack Obamaへのアメリカのみならず世界の期待感は、様々な方面から聞こえてくる。
その期待感を象徴するように、TIME Magazineの選ぶPerson of the Year 2008は、バラク・オバマ氏だった。
それに呼応するように、TIMEのサイトでは、オバマ氏の肖像画を様々な形で表現したアートワークが掲載されている。
印象に残った作品を以下で見ていこう。
● 1,216個のカップケーキで創造したモノ
● オバマ氏自身の記事が掲載された新聞や雑誌で作った肖像画
● レゴ・ブロックで創作されたオバマ次期大統領の笑顔
● Kedsの表面にもオバマ・アート。私はこのようなデザインが好き。
● 針金によって創造されたMr. Obama。ここまで来るとアート作品として、自宅のインテリアにしてみたい。
● アメリカ各州の州旗で作られたバラク・オバマ氏。“Yes, we can!!”が今にも聞こえてきそう。
Monday, December 22, 2008
40歳を迎えたDigital Device
現在我々のデジタル・ライフから切り離せないモノが、今年12月で40歳を迎えた。
そのモノとは、PCを快適に操作するマウスである。
1968年12月9日に、スタンフォード・リサーチ・インスティチュートのエンジニア、ダグラス・エンゲルバート氏が作った世界で最初のマウスが公開された。
この写真が世界最初のマウスである。
Wiredの記事によると、
“Engelbart's first mouse was carved out of a block of wood and had just one button, just like Apple's. Underneath were two wheels connected to potentiometers: One recorded the mouse's movement along the x axis, the other one tracked the y axis.”
つまり、木片をくり抜き、ボタンがひとつ(上部の赤い部分)、下には縦軸と横軸の対応する二つのローラーがついていて移動量がわかる仕組みのようである。
この技術は殆ど今のマウスにも踏襲されていることを考えると、エンゲルバートの発想力、イノベーション力は凄いと改めて感心させられる。
このマウス誕生記念に連動するかのように、ロジテック社が自社製マウスの歴史を図式化したり、
とあるクリエーターが、Apple社のマウスの推移をマッピングしたりしている。
これらをトータルで見ると、マウスのデザインはどんどん丸みを帯び、人間工学に基づいた、形へと変化していっていることが理解できる。マウスのデザイン変化を見ていると、車であったり、家電製品などのデザイン変化とシンクロしているのが興味深い。
ちなみに、私が現在自宅で使用しているマウスは、
こんな感じです。
これは、デザイン集団:groovisionsとコクヨがコラボして創造したモノ。
デザインがCuteで、私の手によく馴染むので、結構長く愛用している。
そのモノとは、PCを快適に操作するマウスである。
1968年12月9日に、スタンフォード・リサーチ・インスティチュートのエンジニア、ダグラス・エンゲルバート氏が作った世界で最初のマウスが公開された。
この写真が世界最初のマウスである。
Wiredの記事によると、
“Engelbart's first mouse was carved out of a block of wood and had just one button, just like Apple's. Underneath were two wheels connected to potentiometers: One recorded the mouse's movement along the x axis, the other one tracked the y axis.”
つまり、木片をくり抜き、ボタンがひとつ(上部の赤い部分)、下には縦軸と横軸の対応する二つのローラーがついていて移動量がわかる仕組みのようである。
この技術は殆ど今のマウスにも踏襲されていることを考えると、エンゲルバートの発想力、イノベーション力は凄いと改めて感心させられる。
このマウス誕生記念に連動するかのように、ロジテック社が自社製マウスの歴史を図式化したり、
とあるクリエーターが、Apple社のマウスの推移をマッピングしたりしている。
これらをトータルで見ると、マウスのデザインはどんどん丸みを帯び、人間工学に基づいた、形へと変化していっていることが理解できる。マウスのデザイン変化を見ていると、車であったり、家電製品などのデザイン変化とシンクロしているのが興味深い。
ちなみに、私が現在自宅で使用しているマウスは、
こんな感じです。
これは、デザイン集団:groovisionsとコクヨがコラボして創造したモノ。
デザインがCuteで、私の手によく馴染むので、結構長く愛用している。
Sunday, December 21, 2008
Creative Presentationの現在
元アップルコンピュータのMr. Guy Kawasaki達が審査員をつとめるワールドベスト⋅プレゼンテーション⋅コンテストというのがある。これは、世界中の多様なカテゴリーから集められてくる、世界で最もCoolで、Hipで、Creativeなプレゼンテーションをチョイスする場である。
今年も、世界のベスト・プレゼンテーションが発表された。
昨年のベストプレゼンテーション「Shift Happens」は素晴らしかったが、今年もなかなかの力作揃い。
Shift Happens
2008年のコンテストで印象深かったのは、コンテスト全体第2位の「Foot Notes」、Business部門で第1位の「Storytelling 101」、そしてOffbeat/Creative部門第1位の「Creativity」だった。
これらのプレゼンテーションは、ミニマルで、シンプルな中に、クリエイティブな発想が散りばめられている。特に全体で第2位だった「Foot Notes」は、足元だけでの世界旅行記という実に面白いアイデアが私の完成に直撃した。私もこのような美しい、アイデア満載のプレゼンテーション資料を2009年も創造したい。
Foot Notes
Storytelling 101
Creativity
今年も、世界のベスト・プレゼンテーションが発表された。
昨年のベストプレゼンテーション「Shift Happens」は素晴らしかったが、今年もなかなかの力作揃い。
Shift Happens
2008年のコンテストで印象深かったのは、コンテスト全体第2位の「Foot Notes」、Business部門で第1位の「Storytelling 101」、そしてOffbeat/Creative部門第1位の「Creativity」だった。
これらのプレゼンテーションは、ミニマルで、シンプルな中に、クリエイティブな発想が散りばめられている。特に全体で第2位だった「Foot Notes」は、足元だけでの世界旅行記という実に面白いアイデアが私の完成に直撃した。私もこのような美しい、アイデア満載のプレゼンテーション資料を2009年も創造したい。
Foot Notes
Storytelling 101
Creativity
Saturday, December 20, 2008
ミクロ視点としてのCreative
昨日は2009年のキー・コンセプトに関して、このblogで述べた。
2009年のキー・コンセプトは「Architecture」とした訳だが、それに連なるサブ・コンセプトに関しても実は議論していた。
「Architecture」は社会デザインをするなどマクロ的視線であるが、マクロ的思考を成立させるためにはミクロ的な視線も大事になってくる。では、新たなモノを構築していくことのエッセンスとなってくるのは何か?
やはり、それはここ数年様々な場で話題となっている「CreativeまたはCreativity」ではないだろうか。
今年5月に世界的建築家・隈研吾氏の講演を拝聴し、よりCreativeという言葉の重要性を実感した。
講演タイトルは、「負ける建築の思想と実践」。「受動性=負け」と定義付けた隈氏の建築理論を、建築フィールドにいない我々に対しても、彼自身のケーススタディ(現在進行形の建築物など)を元に、噛み砕いてレクチャーしてくれた。隈研吾という一人の建築家が、プロジェクトの大小に関わらず、予算、建築条件をまずは受け入れて、街並みや歴史に敬意を払いながら、その土地や人々との対話をして、思考を巡らせる。これこそ、負ける建築のエッセンス。
また、彼はNYにあるRockefeller Centerに代表される20世紀型商業主義的ポストモダン建築=マッチョ思想ではなく、現在のように文明が成熟した時代には時の移り変わりに対する繊細な感受性を重視する建築こそ21世紀型だと主張する。Super Parts=超部分を大切にした建築物を、彼は関西エリアで今年も新たに構築した。
それが朝日放送新社屋である。この建造物は隈氏の説明によると、過去の作品の集大成=負ける建築の実践となっているようだ。この建造物は、アジア的穴(西欧的オブジェと対比される)の思想、縁側的なるモノ、そして自然素材をふんだんに散りばめた構造物として、今後大阪の21世紀型建築の代表的存在となるであろう。
彼の思考のエッセンスを聴いたり、読んだりしていて、Creativity=創造性というモノは、経験に基づいて何かを生み出そうとする力が働くため、過去を超えようとする意志の産物であることが理解できる。
その産物を創り出すには、
1)まずは新鮮なナマの情報をキャッチすること → そのためには、目の前の現実を自らの五感で感じ取り、咀嚼することが、Creativityの原点になるであろう。この原点を経て、未知なるモノに遭遇した時の驚きを、いかに表現するかに真価が問われるのだ
2)次に、対話を重視すること → 自分の発想を形にし、それを他者と共有する才能=Communication能力を磨くこと。たとえ他者から否定されようと、粘り強く対話を重ね、相手の本音を引き出す。
これらのプロセスが必要となる。
昨日も述べた建築的思考に、この創造的プロセスを加味することで、2009年のコンセプトは完成を見る。
2009年のキー・コンセプトは「Architecture」とした訳だが、それに連なるサブ・コンセプトに関しても実は議論していた。
「Architecture」は社会デザインをするなどマクロ的視線であるが、マクロ的思考を成立させるためにはミクロ的な視線も大事になってくる。では、新たなモノを構築していくことのエッセンスとなってくるのは何か?
やはり、それはここ数年様々な場で話題となっている「CreativeまたはCreativity」ではないだろうか。
今年5月に世界的建築家・隈研吾氏の講演を拝聴し、よりCreativeという言葉の重要性を実感した。
講演タイトルは、「負ける建築の思想と実践」。「受動性=負け」と定義付けた隈氏の建築理論を、建築フィールドにいない我々に対しても、彼自身のケーススタディ(現在進行形の建築物など)を元に、噛み砕いてレクチャーしてくれた。隈研吾という一人の建築家が、プロジェクトの大小に関わらず、予算、建築条件をまずは受け入れて、街並みや歴史に敬意を払いながら、その土地や人々との対話をして、思考を巡らせる。これこそ、負ける建築のエッセンス。
また、彼はNYにあるRockefeller Centerに代表される20世紀型商業主義的ポストモダン建築=マッチョ思想ではなく、現在のように文明が成熟した時代には時の移り変わりに対する繊細な感受性を重視する建築こそ21世紀型だと主張する。Super Parts=超部分を大切にした建築物を、彼は関西エリアで今年も新たに構築した。
それが朝日放送新社屋である。この建造物は隈氏の説明によると、過去の作品の集大成=負ける建築の実践となっているようだ。この建造物は、アジア的穴(西欧的オブジェと対比される)の思想、縁側的なるモノ、そして自然素材をふんだんに散りばめた構造物として、今後大阪の21世紀型建築の代表的存在となるであろう。
彼の思考のエッセンスを聴いたり、読んだりしていて、Creativity=創造性というモノは、経験に基づいて何かを生み出そうとする力が働くため、過去を超えようとする意志の産物であることが理解できる。
その産物を創り出すには、
1)まずは新鮮なナマの情報をキャッチすること → そのためには、目の前の現実を自らの五感で感じ取り、咀嚼することが、Creativityの原点になるであろう。この原点を経て、未知なるモノに遭遇した時の驚きを、いかに表現するかに真価が問われるのだ
2)次に、対話を重視すること → 自分の発想を形にし、それを他者と共有する才能=Communication能力を磨くこと。たとえ他者から否定されようと、粘り強く対話を重ね、相手の本音を引き出す。
これらのプロセスが必要となる。
昨日も述べた建築的思考に、この創造的プロセスを加味することで、2009年のコンセプトは完成を見る。
Subscribe to:
Posts (Atom)